中央快速線

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中央快速線 御茶ノ水駅 - 水道橋駅
中央快速線 御茶ノ水駅

中央快速線(ちゅうおうせんかいそく)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)管内の中央本線のうち、東京都千代田区東京駅から東京都八王子市高尾駅までの快速電車の運転系統の案内上および営業上の呼称である。また路線図などの案内では山梨県大月市大月駅までとなっているものもある。

御茶ノ水駅 - 三鷹駅間の複々線区間のうち、この快速電車と優等列車が走る線路は「中央急行線」が正式な名称である(後述)が、書籍・雑誌やJRのプレスリリース[1]などでは、東京駅 - 高尾駅・大月駅間の運転系統を指して「中央快速線」と表記されることもあるが、「中央線快速」と表記される事が多い。JRの路線図や駅ホームなどでは「中央線(快速)」、「中央線快速電車」といった表現でも案内されているほか、単に「中央線」と案内することも多い。

駅ナンバリングで使われる路線記号はJC[注 1]

概要[編集]

東京地区の電車特定区間E電)の運転系統の一つで、東京都心と東京都中・西部の多摩地域の各都市とを結び、また都心部では各新幹線と接続する東京駅副都心の一つである新宿とを結ぶ役割を担っている。起源は戦前の1933年昭和8年)に東京駅 - 中野駅間で運行が開始された“急行電車”であり、その後“快速”と改称されている。国鉄時代に投入された101系電車以降の車両にはオレンジバーミリオン、国鉄朱色1号)が車体色に採用され、これが当路線のラインカラーとして旅客案内などにも使用されている。

基本的な運行系統としては、主に電車特定区間内の東京駅 - 高尾駅間を運行するが、大月駅まで運行される列車や、立川駅から青梅線に分岐して青梅駅まで乗り入れる列車もほぼ終日にわたって設定されているほか、一部は五日市線武蔵五日市駅(青梅線経由)、八高線高麗川駅(同)、富士急行線河口湖駅まで運行される。

2007年10月から、JR東日本八王子支社では「中央線が好きだ。」というポスターを製作し、駅や電車の中吊りに掲出している。

路線図

名称について[編集]

上空から見た中央線高架橋

路線名としては、東京駅 - 神田駅間は東北本線代々木駅 - 新宿駅間は山手線に属し、その他の区間は中央本線である。国鉄時代はこれらの2区間が重複所属であったが、民営化後に変更された。なお、マルスのシステム上の経路表示においては「中央東線」と呼び、区間は「東京 - 神田 - 御茶ノ水 - 代々木 - 新宿 - 韮崎 - 」となっており、東京駅 - 神田駅間が「東北線」と重複し、「山手線」の代々木駅 - 新宿駅間は分断されている。

当該区間のうち、御茶ノ水駅 - 中野駅間は東京の日本国有鉄道(国鉄)時代には早くから複々線化されたことや、複々線の両方に旅客列車が走行し急行運転を行ってきたことから、現在も、快速電車や長距離列車などが走る本線は正式には「中央本線(急行線)」と呼ばれている。テンプレート:独自研究範囲これに対し、各駅停車の走る側を「緩行線」とし「緩」のマークがある。

中央本線の沿革の兼ね合いや運行系統のため、東京圏で単に「中央線」と言う場合には、中央線快速電車を指す場合が多い。この運転系統の駅構内での案内方法は、東京駅 - 神田駅間と武蔵境駅 - 高尾駅間(複線区間)では「中央線」、御茶ノ水駅 - 三鷹駅間(複々線区間)では「中央線(快速)」と案内される。また案内放送などで用いられる英語名は "Chuo Line Rapid Service" である。

かつて現在の快速電車は急行電車と称していた。しかし、松本・甲府方面の準急急行列車(有料)に格上げされ、中央線に有料の急行列車と無料の急行電車が存在することになり、この混乱を避けるため、無料の急行電車を快速電車と改称した経緯がある。

歴史[編集]

甲武鉄道の東京都心乗り入れに際して建設された市街線(しがいせん)に関東大震災後の復興事業での貨客分離および長距離列車と近郊電車との路線分離を行うために複々線化した上で列車線貨物線として開業したのが現行の中央線快速の始まりとされる。

御茶ノ水駅 - 中野駅間で複々線が建設され、1932年(昭和7年)に完成した。計画当初は貨物輸送力の増強を図る目的であったが、複々線全線完成後一部時間帯に急行列車を運行させ、旅客輸送力の強化が図られた。また、この計画と同時に総武本線両国駅 - 御茶ノ水駅間についても高架鉄道として建設され、この結果東京駅始発のものをラッシュ時には急行電車として運行することとなり、各駅に停車する電車は一部の時間帯に総武本線へ乗り入れることとなった。

第二次大戦後、中央線の輸送力増大は重要課題となり、1957年には東京駅 - 御茶ノ水駅間および中野駅 - 三鷹駅間の複々線化を決定したが、計画実行には苦慮していたところ、1960年に営団から東西線との直通運転の提案を受け、東京 - 御茶ノ水駅間線増に代わるものとした[2]。引き続き「通勤五方面作戦」が進む中で1966年(昭和41年)に中野駅 - 荻窪駅間の複々線化が完成し、中央緩行線の電車と営団地下鉄東西線(現在の東京メトロ東西線)乗り入れの電車がこの区間に運行されている。1969年(昭和44年)には複々線区間が三鷹駅まで延長された。だがそれ以降計画はほとんど進まず、三鷹駅 - 立川駅間の複々線化事業は事実上の凍結状態にある。

  • 1889年明治22年)
    • 4月11日:甲武鉄道新宿駅 - 立川駅間が開業。
    • 8月11日:立川駅 - 八王子駅間が延伸開業。
  • 1894年(明治27年)10月9日:牛込駅 - 新宿駅間が延伸開業(市街線の開業)。
  • 1895年(明治28年)4月3日:飯田町駅 - 牛込駅間が延伸開業。
  • 1904年(明治37年)
    • 8月21日:飯田町駅 - 中野駅間が電化(直流600V)。
    • 12月31日:御茶ノ水駅 - 飯田町駅間が延伸開業(電化)。
  • 1901年(明治34年)8月1日:官設鉄道八王子駅 - 上野原駅間が開業。
  • 1902年(明治35年)
    • 6月1日:上野原駅 - 鳥沢駅間が延伸開業。
    • 10月1日:鳥沢駅 - 大月駅間が延伸開業。
  • 1906年(明治39年)10月1日:甲武鉄道御茶ノ水駅 - 八王子駅間を買収・国有化し、八王子駅 - 篠ノ井駅間を鉄道に編入、これにより御茶ノ水駅 - 篠ノ井駅間が鉄道となる。
  • 1908年(明治41年)4月19日:御茶ノ水駅 - 昌平橋駅間が延伸開業(電化)。
  • 1911年(明治44年)5月1日:宮ノ越駅 - 木曽福島駅間が延伸開業(全通)。中央西線を編入し、昌平橋駅 - 名古屋駅間を中央本線に改称。
  • 1912年(明治45年)4月1日:昌平橋駅 - 万世橋駅間が延伸開業(電化)。
  • 1919年大正8年)
    • 1月25日:中野駅 - 吉祥寺駅間が電化。
    • 3月1日:万世橋駅 - 東京駅間が延伸開業。
  • 1920年(大正9年)5月26日:国分寺駅 - 下河原駅間貨物支線が開業(東京砂利鉄道の線路を譲受、1910年(明治43年)敷設)。
  • 1922年(大正11年)11月20日:吉祥寺駅 - 国分寺駅間が電化。
  • 1927年昭和2年)
    • 2月東浅川駅が開業。
    • 3月1日:代々木駅 - 信濃町駅間が複々線化。
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年)
    • 3月10日:国分寺駅 - 国立駅間が電化。
    • 4月15日:飯田町駅 - 信濃町駅間が複々線化。牛込駅(現在の飯田橋駅東口付近)が廃止。
    • 6月16日:国立駅 - 立川駅間が電化。
  • 1930年(昭和5年)12月20日:立川駅 - 浅川駅(現在の高尾駅)間が電化。
  • 1931年(昭和6年)4月1日:浅川駅 - 甲府駅間が電化。ただし、浅川駅以西を結ぶ列車は電気機関車牽引の客車により運転される。
  • 1932年(昭和7年)7月1日:御茶ノ水駅 - 飯田橋駅間が複々線化。御茶ノ水駅改良工事完了。総武本線乗り入れ開始。
  • 1933年(昭和8年)
    • 7月15日:長距離列車の東京側の始発駅が、飯田町駅から新宿駅に変更。
    • 9月1日:朝夕ラッシュ時に限り列車線を使用して御茶ノ水駅 - 中野駅間で急行電車が運行開始。
  • 1934年(昭和9年)4月2日:国分寺駅 - 東京競馬場前駅間の支線開業(電化路線、国分寺駅 - 北府中駅間は国分寺駅 - 下河原駅間貨物支線と重複)。
  • 1943年(昭和18年)11月1日:万世橋駅が休止(事実上廃止)。
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月5日:急行電車の運行を休日にも拡大。
    • 10月1日:国分寺駅 - 東京競馬場前駅間が休止。
  • 1946年(昭和21年)
    • 6月14日:東中野駅 - 大久保駅間の曲線区間でドアより通勤客が放り出され死亡する事故(中央線乗客転落事故)が発生。
    • 6月17日:朝間上りに限り急行電車が四ツ谷駅を通過。
  • 1947年(昭和22年)
    • 4月24日:国分寺駅 - 東京競馬場前駅間の支線の運行が再開。
    • 5月5日:急行電車に婦人子供専用車が設定。
  • 1949年(昭和24年)9月二等車の連結が再開。
  • 1951年(昭和26年)
  • 1956年(昭和31年)9月1日:国分寺駅 - 下河原駅間貨物支線の起点を北府中駅に変更、これにより国分寺駅 - 東京競馬場前駅間の支線との重複が解消。
  • 1957年(昭和32年):急行電車に101系が導入開始。二等車の設定が廃止され、代わって老幼優先車が設定される(1958年に廃止)。
  • 1959年(昭和34年)
    • 11月1日:三鷹駅 - 武蔵野競技場前駅間の支線が廃止[4]
    • 11月9日:平日に限り急行電車の終日運行開始。
  • 1960年(昭和35年)9月10日:東浅川駅が廃止。
  • 1961年(昭和36年)3月17日急行料金を徴収する急行列車アルプス」の運行開始(1960年)により、急行電車を現行の快速電車に改称。
  • 1966年(昭和41年)4月28日:中野駅 - 荻窪駅間が複々線化。休日にも快速電車の終日運行が行われる。
  • 1967年(昭和42年)7月3日:国電区間が中野駅から高尾駅まで延長。同時に特別快速の運行開始。設定時より昼間時のみ運行。
  • 1969年(昭和44年)4月8日:荻窪駅 - 三鷹駅間が複々線化。
  • 1973年(昭和48年)
    • 4月1日:国分寺駅 - 東京競馬場前駅間の支線廃止。北府中駅 - 下河原駅間貨物支線は武蔵野線に移籍(1976年9月20日廃止)。
    • 9月1日:婦人子供専用車が廃止。
  • 1979年(昭和54年):201系試作車の導入開始。
  • 1981年(昭和56年):201系量産車の導入開始。
  • 1985年(昭和60年)3月14日:定期普通列車の新宿乗り入れを夜行の下り1本をのぞいて廃止。
  • 1986年(昭和61年)11月1日:定期普通列車の新宿駅乗り入れを朝夕を中心に復活。快速電車の大月方面への直通運行および通勤快速の運行開始(当初は新宿駅始発の通勤快速も設定されていた)。停車駅は現在と異なり、新宿駅以東と三鷹駅以西は快速と同じ、新宿駅 - 三鷹駅間は中野駅のみ停車(新宿駅始発は中野駅通過)。途中での追い越しはなし。設定は深夜帯。
  • 1988年(昭和63年)12月1日:国分寺駅2面4線化完成。従来の特別快速を「中央特快」に名称を変更し、新たに国分寺駅に停車するようになる。また休日の夕方以降にも運行時間帯を拡大。青梅線に直通し国分寺駅を通過する「青梅特快」が運行開始。当時のダイヤでは青梅特快のみ新宿駅の発車時刻がほかの特快よりも特急に近く、国分寺駅に停車させるとそこで追い抜かれざるを得ないため、青梅線方面への速達効果を最大限に出すために国分寺駅通過の措置を採っていた。また、夜間の新宿駅始発含む通勤快速を中央特快に格上げ。夕方ラッシュ時に新たな通勤快速を新設。停車駅は現行と同じ。
  • 1990年平成2年)3月10日:快速電車の富士急行線河口湖駅までの直通運転開始。
  • 1991年(平成3年)3月16日:「おはようライナー高尾・青梅」「ホームライナー高尾・青梅」が運行開始。
  • 1993年(平成5年)
    • 4月10日:「青梅特快」が国分寺駅に停車。「通勤特快」運行開始。
    • 12月1日:新宿駅発着の普通列車(下り3本・上り1本)が廃止。115系が新宿駅から完全に撤退。
  • 1996年(平成8年)
    • 3月16日:八高線電化により青梅線経由で拝島駅 - 高麗川駅間へ直通運転開始。
    • 12月14日:東京圏輸送管理システム (ATOS) の使用開始[5]
  • 1999年(平成11年)12月4日:「成田エクスプレス」高尾駅発着列車の運行開始(1往復)。
  • 2001年(平成13年)12月1日:「おはようライナー高尾・青梅」と「ホームライナー高尾・青梅」が「中央ライナー」・「青梅ライナー」に列車名と運行形態を変更して運行開始。
  • 2003年(平成15年)9月28日:三鷹駅 - 立川駅間の連続立体交差事業(高架化)により、前日夜から同日にかけて三鷹駅 - 国分寺駅上り線の仮線切替工事が実施。この際に信号トラブルが発生し、工事終了予定時刻(朝6時頃)を過ぎても8時間あまり同区間が不通になる状態が続いた(「第1回切り替え工事の問題」の節参照)[6]
  • 2004年(平成16年)
    • 7月19日:高架化工事のため、武蔵小金井駅付近の下り線が仮線化。
    • 11月7日:高架化工事のため、国分寺駅・東小金井駅・武蔵境駅付近の下り線を仮線化。三鷹駅 - 国分寺駅間は上下線とも仮線となった。
  • 2005年(平成17年)
    • 9月5日:女性専用車両が再設定。
    • 9月25日:高架化工事のため、西国分寺駅 - 立川駅間の上り線が仮線化。
  • 2006年(平成18年)
    • 10月9日:高架化工事のため、西国分寺駅 - 立川駅間の下り線を仮線化。西国分寺駅 - 立川駅間は上下線とも仮線となった。
    • 12月26日:E233系の運用開始。
  • 2007年(平成19年)7月1日:三鷹駅 - 国分寺駅間の下り線が高架化。
  • 2008年(平成20年)
    • 3月15日:ダイヤ改正でライナーにおける183系・189系の運用が終了。東京駅発箱根ヶ崎駅行が運行開始(平日のみ)。
    • 4月10日:国分寺駅西側にある変電所にて火災が発生。午前8時 - 午後3時の約7時間にわたり東京駅 - 高尾駅間(一時は東京駅 - 甲府駅間)で運転が見合わされ、約50万人に影響がでる[7]。同区間を併走する京王線のダイヤが混乱、さらに沿線の教育機関や企業にも影響を与えた[8]
  • 2009年(平成21年)
    • 1月11日:西国分寺駅 - 立川駅間の下り線が高架化。
    • 12月6日:三鷹駅 - 国分寺駅間の上り線が高架化。
  • 2010年(平成22年)
    • 10月17日:201系の運用終了。
    • 11月7日:西国分寺駅 - 立川駅間の上り線が高架化。
  • 2013年(平成25年)3月16日:新宿駅 - 三鷹駅間の急行線と三鷹駅 - 八王子駅間の最高速度が95km/hから100km/hに向上[9]
  • 2020年令和2年)3月14日:ダイヤ改正。早朝・深夜に運転されていた東京駅発着の各駅停車が廃止され、中央線快速と中央・総武線各駅停車が完全に系統分離される[報道 1]
  • 2021年(令和3年)1月20日:新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う緊急事態宣言の発出および国・関係自治体からの要請に伴い、以下の列車を運休[報道 2]
    • 下り:東京駅を0時10分以降に発車する列車を運休。終電が東京駅 - 武蔵小金井駅間で30分程度、武蔵小金井駅 - 豊田駅間で21分程度、豊田駅 - 高尾駅間で10分程度繰り上げ。
    • 上り:三鷹駅を0時28分以降に発車する列車を運休。終電が三鷹駅 - 東京駅間で17分程度繰り上げ。
  • 2022年(令和4年)7月8日安倍晋三銃撃事件が発生したことを受け、東京駅 - 高尾駅間で18時以降計画運休を実施した。
  • 2024年(令和6年)1月1日能登半島地震が発生したことを受け、東京駅 - 高尾駅間で発生直後以降の列車を運休した。

運行形態[編集]

路線図

東京駅 - 高尾駅間のうち、御茶ノ水駅 - 三鷹駅間では急行線と緩行線から構成される複々線区間となっており、快速系電車は急行線を、各駅停車の電車(中央・総武緩行線)は緩行線を走行する。御茶ノ水駅付近では方向別複々線をなすが、以西では線路別複々線となる。中央線は貨客分離を優先とした大改修を行った上で旅客化されていることや、改修に際して渡り線を複々線区間の出入口に当たる地点にのみ設けた関係で、各駅停車以外は快速も特急もすべて急行線で運行されている[注 2]

定期列車のうち、かつての国電に相当する近距離電車については、停車駅の少ない順に通勤特快・中央特快・青梅特快・通勤快速・快速・各駅停車が設定されている。このうちほぼ終日運行されるのは中央特快・青梅特快・快速の3種別で、それ以外の種別は一部の時間帯のみ運行される。なお、「特快」(とっかい)とは特別快速の略称であるが、現在では中央線や直通線区においては基本的に「特快」と略して使用されている。

東京駅・新宿駅側においてこれらの快速系電車は、日中は1時間あたり14本(中央特快4本・青梅特快1 - 2本・快速8 - 9本)、平日朝は29本(新宿駅8時台上り到着本数)と高頻度で運行され、緩行線(日中1時間あたり11 - 12本、平日朝24本)よりも運行本数が多い。

下り列車に関しては、特別快速と通勤快速は立川駅、快速は中野駅(土休日は吉祥寺駅)から先は各駅に停車するため、駅・車両ともに種別表示が消え「各駅停車」として案内される。

国鉄時代より高尾駅で運行系統が分断されているが、中央本線普通(中距離列車)の新宿駅への乗り入れ縮小(その後廃止)と引き換えに1986年末より大月駅までの直通運転が増えている。高尾駅を越えて大月駅方面に直通運転する列車は、同駅以西では末尾が「M」の列車番号となり、同駅以東の種別に関係なくすべて「普通」(中距離列車)である。冊子の時刻表でも「東京・高尾間快速」などと注記されている。ただし、旅客案内上は利用実態に合わせた運用を行っており、河口湖駅富士急行線)・大月駅発の上り列車は高尾駅以東の種別で案内している。

時間帯別運行種別一覧(平日)
上り(東京方面) 下り(高尾方面)
早朝 各駅停車、快速、中央特快 各駅停車、快速、中央特快
快速、通勤特快 快速
快速、中央特快、青梅特快 快速、中央特快、青梅特快
快速、中央特快、青梅特快 快速、通勤快速
深夜 各駅停車、快速、中央特快 各駅停車、快速、中央特快、青梅特快
  • 臨時列車や普通・特急等は上表の対象外。

特急[編集]

特急あずさ号
E233系と351系

優等列車として、東京と甲信方面とを結ぶ特急「スーパーあずさ」「あずさ」かいじ」が概ね30分間隔で運行される。ほかに朝夜には成田国際空港へのアクセス特急「成田エクスプレス」が2往復運行されている。

これらについての詳細は、それぞれの列車記事を参照。

通勤ライナー[編集]

詳細は 中央ライナー・青梅ライナー を参照

東京駅・新宿駅 - 高尾駅(一部八王子駅発着)・青梅線青梅駅間には、1991年(平成3年)3月改正より座席定員制の通勤ライナーが運行されている。運行当初は「おはようライナー高尾」「ホームライナー高尾」「おはようライナー青梅」「ホームライナー青梅」の列車名で運行され、2001年(平成13年)12月改正から座席指定制に変更し「中央ライナー」「青梅ライナー」として運行されている。

車両は、中央本線特急用のE257系かE351系が使用される。下りライナーは東京駅・新宿駅で乗車客扱いのみを、他駅では降車客扱いのみを行う。上りライナーはその逆である。グリーン車の扱いは、首都圏の他路線の通勤ライナーとは違い指定席扱いとなる。

通勤特快[編集]

1993年(平成5年)4月10日より、遠距離利用の速達化および遠距離・近距離利用客の分離を目的として、平日朝ラッシュ時の上り東京駅行きのみ設定されている種別である[10]。略さずに「通勤特別快速」とも表記される[10]

高尾駅 - 御茶ノ水駅間で通過運転を行う。この間は途中、八王子駅・立川駅国分寺駅に停車し、国分寺駅 - 新宿駅間では中央特快・青梅特快の停車する三鷹駅・中野駅を通過して無停車で走行する、料金不要の列車では最も停車駅が少ない種別である。運行開始以来、停車駅の変更はない。なお、上記の区間以外では各駅に停車する。

大月駅と青梅線青梅駅始発各2本、高尾駅始発1本の計1日5本が運行されている。立川駅と国分寺駅で快速と接続するほか、豊田駅東小金井駅・三鷹駅・中野駅で快速を追い越すこともある。

フルカラーLED行先表示器では赤紫色で表される。

特別快速(中央特快・青梅特快)[編集]

特別快速は、競合する京王線特急への対抗を目的に、国鉄時代の中野駅 - 荻窪駅間複々線化翌年の1967年(昭和42年)7月3日に運行を開始した快速の上位種別である[11][12]。現在は早朝から深夜にかけて運行されており、中央線内のみで運行されるものが中央特快、青梅線に直通するものが青梅特快と称される。朝ラッシュの上りと夕方ラッシュの下りは土曜・休日のみ運行となり、代替として通勤特快(上り)や通勤快速(下り)が運行される。

御茶ノ水駅 - 立川駅間で通過運転を行うが、中野駅 - 立川駅間でも通過運転を行う点が快速との違いである。平日深夜には新宿駅始発の中央特快が2本設定されており、これらは中野駅を通過する。

中央線は国鉄で最初に「特別快速」が設定された路線であり、当時は、東京駅・神田駅・御茶ノ水駅・四ツ谷駅・新宿駅・中野駅・三鷹駅と立川駅 - 終点間の各駅に停車していた。当初は毎時3本設定され、1970年(昭和45年)10月より毎時4本に増発されたが、特快通過駅利用客から不満の声が上がっていたため、1985年(昭和60年)3月にいったん毎時3本に戻されている[12]。民営化後、1988年(昭和63年)12月1日の国分寺駅ホーム2面4線化と同時に青梅線直通の特別快速として「青梅特快」が新設されるとともに、従来の特別快速は「中央特快」に呼称が変更され国分寺駅にも停車するようになった[10]。その後、1993年(平成5年)4月10日のダイヤ改正からは青梅特快も国分寺駅に停車するようになり、中央特快と青梅特快の中央線内での停車駅は統一された。以降、平日・土休日ともに日中は1時間あたり4本前後(およそ15分間隔)運行され、おおむね中央特快3本と青梅特快1本の割合で運行されていた。

2013年(平成25年)3月16日改正の現行ダイヤでは、平日の日中に1時間あたり5本(中央特快4本と青梅特快1本)、土休日の日中に1時間あたり6本(中央特快4本と青梅特快2本)の割合で運行されている。原則として三鷹駅と国分寺駅で快速に接続する[9]

フルカラーLED式行先表示器では中央特快が青色、青梅特快が緑色で表される。

通勤快速[編集]

国鉄最終年度の1986年(昭和61年)11月1日改正から運行されている種別である[13]。平日夕方から夜間の一部時間帯の下りのみで特別快速に代わって運行されている。

運行開始当時は東京駅発6本・新宿駅発3本が設定され、停車駅は東京駅・神田駅・御茶ノ水駅・四ツ谷駅・新宿駅・中野駅と三鷹駅以西各駅[13]。そのうち新宿駅始発の電車は特別快速と同様に中野駅を通過していた。後に、三鷹駅 - 立川駅間は国分寺駅のみ停車となり[注 3]1988年(昭和63年)12月1日に荻窪駅吉祥寺駅に停車するようになり、現在に至る。2013年3月の改正時点では、東京駅基準で16時50分発から21時台までの速達種別として1時間あたり4本(高尾方面3本と青梅方面1本)運行され、三鷹駅以東は土休日の快速停車駅、三鷹駅以西は特別快速停車駅に停車する。

三鷹駅・国分寺駅・立川駅などで快速や各駅停車との接続を行う。一部の通勤快速は豊田駅・高尾駅・相模湖駅・四方津駅のいずれかで特急の通過待ちを行うことがあり、大月駅行きと富士急行線河口湖駅行きの電車は1本を除くすべてが途中で特急に追い抜かれる。

フルカラーLED式行先表示器では紫色で表される。

快速[編集]

中央急行線で最も多く運行されている基本種別である。複々線区間である御茶ノ水駅 - 中野駅(土休日は吉祥寺駅)間で通過運転を行う。1933年(昭和8年)9月15日に「急行」の名称で運行を開始し、1961年(昭和36年)3月20日に現在の「快速」に改称された。

運行開始当時は、東京駅・神田駅・万世橋駅(のちに廃止)・御茶ノ水駅・四ツ谷駅・新宿駅と中野駅以西の各駅に停車し、平日ラッシュ時のみ運行されていた。その後1959年(昭和34年)11月から平日の日中、1966年(昭和41年)4月から休日の運行が開始されている。中野駅 - 三鷹駅間の複々線化後も平日は中野駅以西は各駅に停車し、土休日に限り高円寺駅阿佐ケ谷駅西荻窪駅が通過となった。日中は1時間あたり10本程度運行されていたが、2013年(平成25年)3月16日からはおおむね1時間あたり9本(土曜・休日は8本)ほどの運行となった(減便分は上述の特別快速に変更)。

下りは高尾駅・青梅駅まで運行する電車のほか、武蔵小金井駅・立川駅・豊田駅・八王子駅発着の電車も多い。また、大月駅や五日市線武蔵五日市駅八高線高麗川駅まで直通運転する電車も存在する。上りはほとんどが東京駅行きだが、平日夜間や休日朝に新宿駅行きの電車も設定されている。なお、青梅線奥多摩駅発で東京駅まで乗り入れる列車が早朝のみ存在するが、東京駅発奥多摩駅行きの列車は定期列車では設定されていない。

フルカラーLED式行先表示器では、ラインカラーであるオレンジ色で表される。

快速停車駅に関する議論[編集]

1960年代の中央線複々線化工事の際には杉並区にある高円寺駅、阿佐ヶ谷駅、西荻窪駅の3駅に快速(急行線)ホームを建設しない予定であったが、高円寺駅周辺の商店街や沿線住民を中心とした運動により土曜日を含む平日に限り停車することになった。その後、土曜日も通過するようなダイヤに変更する際も反対運動が行われた。緩行線が別線路で並行しているうえ、平日の快速区間の西限が中野駅で東京23区内であり、複々線区間の急行線の性格を持つ他路線(東海道線総武快速線宇都宮線常磐線など)と比較して電車特定区間での各駅停車区間がかなり長いこと[注 4]、この区間の特別快速等の上位種別がかなりの低速で運転しており運行の妨げになっていること、中野駅・荻窪駅・吉祥寺駅などと比較すると利用客数はかなり少ないことなどからこれら3駅には快速を停車させる必要がないのではという意見がある(いわゆる「杉並三駅問題」)[14]。一方、この区間が線路別複々線であり乗り換えが大変なため利用者の意見は説得力をもち、もし方向別複々線であったならば、通過しても問題は生じなかっただろうという見解もある[12]

各駅停車[編集]

各駅停車は基本的に急行線と併設された緩行線を使用し、すべての駅に停車する。

1933年(昭和8年)の急行の運行開始当時、急行運行時間帯の東京駅発着の中央線電車は半数が緩行線で運行されていたが、1941年-1942年ごろに中央線の運行間隔が短縮されたことにより御茶ノ水駅での急行線・緩行線の振り分けが困難となり、ラッシュ時の東京駅発着電車はすべて急行となった。その後も前述のとおり、平日日中は1959(昭和34年)年まで、休日は1966年(昭和41年)まで急行(快速)が運行されておらず、緩行線経由の各駅停車が東京駅に乗り入れていた(総武線電車は御茶ノ水駅折り返し)[12]

現在は、東京駅発着の各駅停車は早朝・深夜帯のみの運行となっている。運行時間帯は土曜・休日ダイヤでは平日より30分から1時間程度長い。それ以外の時間帯の各駅停車は緩行線専用の車両で総武緩行線や東京メトロ東西線との直通運転を行っており、神田駅・東京駅および三鷹駅以西へは乗り入れていない。毎日早朝と土曜・休日の深夜上りは、ほぼ各駅停車のみの運行だが、平日深夜の上下と土曜・休日深夜の下りは、終電の少し前の時間帯まで快速と各駅停車が混ざって走行する状態となる。深夜の下りは、山手線などとの接続の観点から、新宿駅で数分程度停車する電車がある。

この運行と前後して、早朝の上りと夜間の下りには武蔵小金井駅・国分寺駅・立川駅発着の総武緩行線直通電車があり、それらには緩行線用の209系・E231系が運用されている。

このほか、新宿駅跨線橋架け替え工事が行われる場合など、急行線が使用停止になる際には、快速電車の運行が中止され、終日東京駅発着の各駅停車が運行されることがある。この場合、総武線直通電車と交互に運行される(総武線直通と中央線の本数は通常より減り、東西線との直通運転は中止となる)。

E233系のフルカラーLED式行先表示器では、緩行線のラインカラーである黄色で表される。

普通[編集]

立川駅以西には中央本線大月駅・甲府駅方面の中距離列車である普通列車も運行されている。

1933年(昭和8年)7月15日以前は東京駅へも乗り入れており、1911年(明治44年)5月1日の全線開通時からしばらくは、中央本線全区間を結ぶ列車も存在した。その後中距離列車は新宿駅始発となり、新宿駅・立川駅・八王子駅と高尾駅以西の各駅に停車していたが、1986年(昭和61年)11月1日から三鷹駅にも(その後さらに西八王子駅も)停車を開始した。1993年(平成5年)12月1日に新宿駅発着が廃止され新宿駅 - 立川駅間での運行がなくなり、さらに1996年(平成8年)12月1日に日野駅・豊田駅にも停車するようになってからは通過駅がなくなった。現在は立川駅・豊田駅・八王子駅・高尾駅発着で、ほぼ半数以上が高尾駅での折り返し運転となっており、日中は高尾駅で中央特快との相互接続が行われている。

「むさしの号」[編集]

2010年12月4日以降「むさしの号」の運行本数
(平日/休日)
大宮行き 大宮発
八王子発 府中本町発 八王子行き
1 / 2 2 / 1 3 / 3 1 / 1
夕-夜 1 / 1 0 / 0 1 / 1 2 / 2
2 / 3 2 / 1 4 / 4 3 / 3

国立駅以西では、武蔵野線を経由して中央線沿線と東北本線大宮駅とを結ぶ「むさしの号」が運行されている。この列車は元来臨時快速列車であったが、2010年12月4日より定期列車化したことに伴い、同日付で列車種別が普通列車に変更された[15]。車両は武蔵野線の205系・209系が使用されている。当初は中央線内では通勤特快と同じ停車駅(立川駅・八王子駅)であり、国立駅・日野駅・豊田駅の3駅は通過となっていた。

2014年3月ダイヤ改正で通過駅となっていた3駅は全て停車となり、従来から各駅停車区間となっていた大宮駅 - 武蔵野線新小平駅間と合わせて、全区間各駅停車に変更された。

ホリデー快速[編集]

土曜・休日には行楽客などを対象にホリデー快速が運行される。

このうち青梅線に直通する「ホリデー快速おくたま・あきがわ」は特別快速のグループに含まれるが、青梅線内でも通過運転を行う。これらは新宿駅始発で、中野駅にも停車する。

このほか、富士急行線に直通する「ホリデー快速富士山」、中央本線大月駅以西へ直通する「ホリデー快速ビューやまなし」がある。こちらは列車種別が“快速”であるものの、特別快速より停車駅が少なく設定されている(新宿駅・三鷹駅・立川駅・八王子駅・高尾駅のみ停車)。これは、かつて存在した新宿駅発着の普通(前述)の上位種別として設定された列車であることによる。

使用車両[編集]

ここでは、快速電車(かつての急行電車)としてこれまで運用されてきた車両について述べる。特急・急行、ホームライナー、中距離電車で運用される車両は「あずさ (列車)」「かいじ (列車)」「中央ライナー・青梅ライナー」「中央本線」を参照のこと。

現在の使用車両[編集]

現在中央線快速では、片側4扉の通勤型電車10両編成が運用されるが、10両貫通の編成と、6両編成と4両編成を連結した編成とが存在する(以降、後者の編成を「分割編成」、編成を分割する運用を「分割運用」と記す)。

  • E233系0番台(2006年12月 - ):58編成(580両・中央線運用編成のみ)
    • 中央線快速では初のステンレス車両であり、車体にオレンジバーミリオン()の帯が巻かれた車両が使用される。201系と比較して車体幅が広くなっている。
    • 2006年12月26日より東京駅 - 大月駅・青梅駅間で10両編成による営業運転を開始した。翌2007年3月18日のダイヤ改正より分割運用も始まり、青梅以西・五日市線・八高線・富士急行線直通列車でも運用を開始した。分割編成は、後述の201系が東京側4両・大月側6両の構成であったところを本系列は東京側6両・大月側4両の編成に変更された。また201系では快速運転を実施する場合でも行先のみを表示するが、E233系では行先表示器に「快速」を併記している[注 5]。中央線用編成としては10両貫通編成のT1 - 42と6両+4両編成のH43 - 57の57本が製造されたが、2008年3月ダイヤ改正で運用本数の変更があり、青梅線・五日市線専用編成2本(青458・658)を中央線編成に転用し、H58に改名している。

過去の使用車両[編集]

  • 72系
  • 101系(1957年12月 - 1985年3月)
    • 高速での運行をある程度考慮した設計だが、当初の設計よりM車比を落としたため性能が限界に近く、冷房装置を載せると加速力が落ちたり主電動機が過熱するため、一部の限定運用車以外は冷房装置の搭載ができなかった。最後は武蔵小金井区の本線最終運用が1985年3月13日であり、同4月29日にお別れ運転として新宿駅 - 高尾駅間で1往復の臨時電車が運行された[16]
  • 103系(1973年4月 - 1983年3月)
    • もともと、駅間の短い線区用であったが、当線にも投入された(国鉄103系電車#歴史を参照)。103系は総武緩行線や南武線の冷房化率を向上させるため、101系よりも早い時期に全車両が他線に転出した。
  • 201系(1979年8月 - 2010年10月)
    • オレンジバーミリオンの車両が使用された。4両編成と6両編成を連結した編成と、10両貫通編成の2種類があった。列車番号・編成番号では前者がH、後者がTとされ、運用も区別されていた。末期は全編成が豊田車両センターに所属していたが、この区分はHが旧武蔵小金井電車区、Tが旧豊田電車区受け持ちを示していた頃の名残りである。過去には旧三鷹電車区の受け持ち運用もあり、A運用となっていた。A編成は10両貫通であり、A運用は三鷹区が緩行線専門になった以降もしばらくの間武蔵小金井区の10両貫通運用に存在したが、JR化後の平成初期にH運用となり、その後豊田への統合でTへと変化していた。高尾駅以西に乗り入れる場合、いずれも高尾駅以西の列車番号の末尾はMになった。
    • 2006年からE233系の導入に伴い廃車が始まった。2008年3月末までにE233系への置き換えを完了した後も、三鷹駅 - 国分寺駅間の高架工事完成まで予備車としてH4編成・H7編成の2編成が使用されたが、H4編成は2010年夏をもって運用を終了[17]、その後最後のH7編成も同年10月17日のさよなら運転をもって運用を終了した[18]

女性専用車[編集]

警視庁による首都圏鉄道路線での痴漢件数調査で、中央線は埼京線に次いで第2位の多さという結果が出た。これを受けて2005年9月5日より痴漢防止対策として平日朝ラッシュ時間帯の7時30分 - 9時30分に新宿駅を発着する上り快速・通勤特快で東京寄りの一番前の車両(1号車)に女性専用車が設定されている。JR東日本においては埼京線に続き2路線目。しかし、皮肉なことに設定開始翌年の2006年に行われた調査では、同線を超えて痴漢件数第1位という結果が出たという。

最初に設定された時点では、分割対応編成は奥多摩駅高麗川駅河口湖駅への乗り入れ運用をこなす4両編成が東京寄りに連結される編成を組んでいたため、この4両編成が乗り入れる区間から女性専用車が設定されていた。しかし、2007年3月18日のダイヤ改正以降はE233系による編成分割運用が登場し、201系の分割対応編成も運用共通化のため編成の組み換えを実施した。分割対応編成は東京寄りに6両編成が連結される組成になり、女性専用車が4両編成側から6両編成側に移動したため、翌3月19日の電車からは設定区間が変更されている。

2005年9月5日 - 2007年3月16日
  • 中央線:大月駅 → 東京駅間
  • 青梅線:奥多摩駅 → 東京駅間
  • 八高線:高麗川駅 →東京駅間
  • 富士急行線:河口湖駅 →東京駅間
2007年3月19日 -

201系の一部編成では女性専用車であることを分かりやすくするため、1号車に女性向け商品の車体広告ラッピングされていた。また、2006年12月から運転を開始したE233系では、1号車のみすべての吊り手や網棚の位置を優先席と同様に低くする工夫がなされている。

なお、中央線では1912年(明治45年)1月31日に昌平橋駅(同年4月1日万世橋駅開設に伴い廃止) - 中野駅間の登下校時間帯の電車に婦人専用車を連結したのが始まりで[19]、戦後は1947年5月5日 - 1973年8月31日にも婦人子供専用車を設置していた。また、1957年に二等車を廃止した代わりに老人幼児優先車を翌年まで連結していたことがある。

諸問題[編集]

定時性[編集]

日本の鉄道の中では定時性はあまり良くない路線として知られており、ラッシュ時には5分程度の遅れが頻繁に発生する。これは利用客の多さにより、10両でラッシュ時最短2分間隔運転と、すでに複線での輸送力のほぼ限界一杯に達しており、混雑の緩和が困難であることが大きな原因である[注 6]。ほかにも、人身事故の多さや、30分に1本走る特急や特別快速、通勤ライナーなど多種多様な列車種別があること、青梅線などの支線が多く運行形態が複雑で遅れの回復が困難などといった理由もある。

人身事故とその対策[編集]

ほかの路線と比較して自殺、事故を含めた人身事故が多いとされているが、正確な統計が公開されていないためその真偽は不明である。ただし、特に1997年から1998年にかけて、事故や気象によるトラブルが重なった上に人身事故による列車遅延が頻発したことによってマスコミに盛んに取り上げられるようになった[20]

自殺が多いとされることの原因については諸説あるが、自殺の名所というイメージが定着することによる負の連鎖反応によるものなどがあげられている。JRでは一部の駅でホームの両端に柵を設ける、照明を増やす、死角となる壁や柱を作らない、ホームの表面を明るい色にするなどの対策を行っており、荻窪駅では自殺を思いとどめさせる目的でホームの向かい側にを設置している。

荻窪駅と西荻窪駅では2009年9月15日より、自殺防止を目的として、ホームの端の蛍光灯を青色のものに変え、10月以降、東京駅 - 高尾駅間の24駅と、立川駅 - 八王子駅間の18の踏切に、青色LEDの照明を順次導入した。

連続立体交差事業[編集]

開かずの踏切による街の分断と交通渋滞を解消するために、1996年(平成8年)度から、東京都やJR東日本などが事業主体となって、自動車税ガソリン税を財源として、東京駅 - 日野駅間40.8kmの連続立体交差化が決定され、三鷹駅 - 国分寺駅間7.3kmと国立駅 - 立川駅間3.0kmで事業が実施されている。

本工事は1999年(平成11年)から始まり、2006年(平成18年)10月までに5回の仮線への切り替え工事が行われた。下り線は三鷹駅 - 国分寺駅間が2007年(平成19年)7月1日に、西国分寺駅 - 立川駅間が2009年(平成21年)1月11日に、上り線は三鷹駅 - 国分寺駅間が同年12月6日に、西国分寺駅 - 立川駅間が2010年(平成22年)11月7日に高架に切り替えられ、合計で18か所の踏切を解消した。これにより東京駅 - 日野駅間の立体交差化が実現し、同区間における開かずの踏切は解消された。その後上り線の新線路が、武蔵小金井駅で2012年(平成24年)5月20日に、国立駅で同年12月16日に増設された。そして2013年(平成25年)2月24日に武蔵小金井駅の車庫付近のポイント切り替え工事が行われたのを最後に、高架切り替え工事は終了した。また同年までに仮線路や駅施設、および武蔵小金井駅前にあった歩道橋の撤去が行われた。2013年12月現在は側道の整備を実施している。最終的な完成は2014年(平成26年)春頃を予定している。

第1回切り替え工事の問題[編集]

最初の大規模な工事は2003年(平成15年)9月27日の夕方から翌28日朝までの予定で行われ、三鷹駅 - 国分寺駅間の上り線を仮線に切り替えた。27日は予定通り進んだが、翌28日朝になってから武蔵小金井駅で配線ミスにより運行再開できない状態が続き、終了予定時刻を8時間ほど遅れた午後2時頃に運行を再開した[21][22]。JR東日本は運行再開までバス代行の運行時間を延長するよう各バス会社に要請したが、人員不足などを理由に1時間の延長で代行バスは終了し[23]、同区間から立川・新宿方面への確実な移動手段がなくなったため大混乱となった。また、この作業の際に武蔵境駅周辺ではケーブルテレビ(電波障害用)が日中帯に半日ほど視聴できなかったが、この件に関してもJR側からは何の説明も行われなかった。

この前代未聞の事象に各種メディアは、「同社が関連会社に工事を丸投げして監督責任を怠っていたこと」「東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線品川駅工事の時に事前に工事リハーサルを行ったなどの例に比して、これだけの大規模な工事をぶっつけ本番で一挙に行う半ば無謀な計画であったこと」などと批判し、9月28日にJR東日本は記者会見を行ったが、その中で「もっとバスを借りられるように手配すべきであったが、ここまでの事態は予想できなかった。しかし、すべての乗客をそもそもバスに振り替えるのは無理。バス輸送は補完的なもので、隣接する私鉄に回って、と前からお願いしていた」と発言し、さらなる批判を招いた。

この仮線に切り替えにより、踏切の幅が広がって渡りきれないなどのケースや(翌2004年の7月と11月に行われた仮線への切替工事により、仮線切替前の横断距離に戻った[24]ほか、2007年7月1日と2009年1月11日の下り線高架化により遮断時間・横断距離が短縮されている)、踏切の遮断時間が増えたため、JR東日本は歩行者・自転車用に架道橋を設置したりした[25]

この後に実施された三鷹駅 - 国分寺駅間下り線の仮線化工事に際しては、切替工事に対するリスク管理のため[26]、切替区間を分割して実施された。以降実施された切替工事に関してもリスク管理の徹底が図られ、すべて予定時間内に完了している。

複々線化[編集]

この高架化事業とは別に、三鷹駅 - 立川駅では複々線化が計画中である。複々線のうち急行線は高規格な地下路線となる予定で、実現した場合には中野駅 - 立川駅間を運行している快速の停車駅も変更を迫られると見られる。2015年頃までの完成を計画していたが、高架化工事の状況から見込みが立っていない。

三鷹駅 - 立川駅間の複々線化は1970年代にはすでに計画されており、そのさなかに開業した西国分寺駅のホーム構造を見れば明らかなように用地は確保されていた。しかし、複々線化工事の着工に手間取っているうちに法改正がなされ、高架化する際には、脇に側道を整備することが義務付けられたため、複々線の用地を環境側道に転用することになってしまった。このため、仮に複々線化が実現したとしても「緩行線は高架・快速線は地下」という構造になる見込みである。ただし、国分寺駅西側から国立駅東側までは掘割であり、既存線に並行して複々線を設置する用地もある。

この複々線を利用する特急列車などの優等列車が三鷹駅から大深度地下を利用した高速地下鉄道によって新宿駅を経由し東京駅で京葉線につなげるという構想もある。ただし、そのための設備投資費用はJR東日本だけが負うにはあまりにも巨額のため、国や自治体の道路建設や整備新幹線並みの援助が必要だろうといわれている[27]

沿線概況[編集]

東京駅の中央線快速ホームは、1995年7月2日に完成した3重層構造高架線の最上部にある(それ以前は現在の3・4番線の位置にあった)。東海道東北上越の各新幹線のホームを真下に見渡すことも、赤レンガ駅舎を真横に見ることもできるホームは、非常に近代的な構造となっている。

東京駅を発車すると、左半分が側道に架かる形になった高架線を34で下っていき、一層下の山手線京浜東北線とフラットレベルになると首都高速八重洲線(地下)と交差、日本橋川と直上の首都高速都心環状線を潜り渡り神田駅に到着する。

高尾寄りで国道17号中央通り)を跨ぐ。この付近は中小ビルが連なる中で商店も多く軒を連ねている。間もなく緩やかに左へカーブし山手線・京浜東北線から分かれる。間もなく交通博物館および万世橋駅昌平橋駅の跡地が見えると右手から神田川が近付く。間もなく中央・総武緩行線松住町架道橋総武線神田川橋梁が見え、中央・総武緩行線が合流し、聖橋を潜ると御茶ノ水駅に到着する。同駅は神田川を通すため武蔵野台地を削った谷にあり、都心部とは思えない崖に引っかかっているような駅となっており、眼下には川を渡る東京メトロ丸ノ内線を見ることができる。駅周辺は日本最大の学生街であり、明治大学東京医科歯科大学などの教育施設がある。

御茶ノ水駅から複々線区間に入る。右へ左へとカーブを切りながら方向別複々線から路線別複々線となり、左手から崖がなくなると水道橋駅を通過する。間もなく首都高速5号池袋線を潜り、神田川と別れ、左手に日本貨物鉄道(JR貨物)の本社ビルと合流してくる留置線が見えてくる。かつての飯田町駅はこの付近の本線上にあった。甲武鉄道のターミナルとして開業し、近年は紙の物流基地として栄えた飯田町駅だが、開発の進んだ現在はほとんどその面影がない。間もなく飯田橋駅を通過する。飯田橋駅を通過すると見えてくるのは旧江戸城外堀となる。お堀の堤には青々と草が生えて桜の木も多く、さながら都会のオアシスのようである。市ケ谷駅下の外堀には釣り堀があり、毎日のように釣り人で賑わっている。

市ケ谷駅を通過すると並行していた外堀が消え(正確には、埋め立てられて二次利用されている)、左へカーブし南を向くと四ツ谷駅に到着し、国道20号新宿通り)と東京メトロ丸ノ内線を潜る。高尾寄りがカーブ上にあり、再び南西を向く。

四ツ谷駅を発車すると間もなく御所トンネルを抜ける。このトンネルは赤坂離宮(現・赤坂迎賓館)を潜るため、離宮内の土を開削しトンネルを建設した後再び廃土を埋め戻す、地下鉄の開削工法のような工事が行われた。御所トンネルを抜けると新宿区に入り、左手から首都高速4号新宿線が近付くと信濃町駅を通過する。

間もなく左手奥に明治神宮外苑が見えて渋谷区に入る。さらに右手に新宿御苑が見えると千駄ケ谷駅。並行していた首都高速4号新宿線が左へ分かれると右へカーブして北を向き、山手線・埼京線湘南新宿ラインと合流して代々木駅を通過する。

間もなくルミネが見えると勾配を下り再び新宿区に入り、国道20号(甲州街道)を潜ると新宿駅。JR以外に小田急電鉄京王電鉄東京メトロ東京都交通局と、4社局の路線が接続するターミナル駅である。JRの1日の平均乗降人員が150万人(2005年度)で日本一、さらに接続する路線の乗降人員を含めると346万人(2004年度)に達し、日本一どころか、世界一である。

駅東側はかつて甲州街道の第1宿(内藤新宿)や青梅街道が分岐する交通の要衝として発達し、伊勢丹などの老舗デパートや専門店・飲食店が立ち並び日本有数の繁華街となっており、特にスタジオアルタなどは全国的に知名度が高い。また繁華街に北接する駅北東側の歌舞伎町は日本有数の歓楽街であり、飲食店やホテルが軒を連ねている。

一方の駅西側は戦前まで行楽地であったが、高度経済成長期の1960年代から1970年代にかけて小田急百貨店京王百貨店ヨドバシカメラが開店し、1971年淀橋浄水場の跡地に建てられた京王プラザホテルを皮切りに続々と高層ビルが建設された。さらに1991年千代田区丸の内から東京都庁が移転し、現在は新宿副都心として都心部に次ぐ商業集積地帯となっている。駅南側は再開発によって商業化が進み、前述のルミネのほか、新南口に隣接してタカシマヤタイムズスクエアがある。

新宿駅を発車するとガード(新宿大ガード)を渡り、高層ビル群を見ながら緩やかに左へカーブして湘南新宿ライン・山手線・埼京線から分かれ、間もなく大久保駅を通過、その先も緩やかにカーブし、カーブを抜けて西を向くと再び神田川を渡り中野区に入って東中野駅を通過、ここからはるか先の立川駅まで長い直線区間となる。東中野駅を発車し、東京都道317号環状六号線(山手通り)を潜ると、右手に桜並木が見える。左手に中野電車区が現れると東京メトロ東西線が地上に出て合流し、中野駅に到着する。

中野駅から荻窪駅までの区間は「中央線中野三鷹間線路増設計画」に基づき1961年12月から高架化工事が行われ1964年に工費260億円をかけて完成し、同年9月20日より上下線同時に運用が開始された。これによりそれまで同区間にあった24の踏切はすべて姿を消すこととなった。

同駅周辺は中野サンプラザ中野ブロードウェイを中心に繁華街が形成されて賑わいを見せている。高架駅だが、高架が低い上構内が広く、地上駅の様相を見せる。この先いったん高架線を降りるが、間もなく杉並区に入ると再び高架線を上る。

高架線の下には住宅街が広がっているが、高円寺駅阿佐ケ谷駅周辺はコンパクトに収まった商業地帯となっている。高架線の下に住宅街が迫り側道を作る余裕がないため、この区間の高架下には歩行者専用道路を作るなどの苦慮が施されている。いったん高架線を降り、東京都道5号新宿青梅線青梅街道都道4号と重複)を潜ると荻窪駅に到着する。東京都道311号環状八号線(環八通り)を跨ぐと再び高架を上り、善福寺川を渡る。

西荻窪駅東京女子大学を中心とした文教地区にあり、駅周辺にはアンティーク雑貨店や古書店が立ち並んでいる。また一方で新興宗教の関連施設も多く、かつてオウム真理教の主要施設があったことでも知られる。発車すると間もなく東京23区を抜け、武蔵野市に入る。

東京都道7号杉並あきる野線五日市街道)を跨ぐと左手に丸井ユザワヤ、右手に東急百貨店等が見え、大規模な繁華街に入り、吉祥寺駅へ。水道橋にあった同名の寺院の門前町の住民が五日市街道沿いのこの付近に移住し開墾したことから始まり、現在では京王井の頭線と接続して多摩地区有数の商業地帯となっている。発車すると間もなく両側の高層ビルはなくなり、再び住宅街を走る。駅から北へ15分のところには成蹊学園がある。また、南口は歓楽街として、夜になると別の顔を見せる。

そして再び高架線を下ったところが三鷹駅となる。駅直下に玉川上水が流れ、武蔵野市と三鷹市の市境となっている。北側(武蔵野市)には官公庁の施設が多く、南側(三鷹市)には南北に商店街が伸びている。ここで複々線区間は終わる。

三鷹駅を発車すると左手に三鷹車両センターが見えてきて、跨線橋をくぐると間もなく高架線をのぼる。再び武蔵野市に入り、左手の日本獣医生命科学大学を過ぎると武蔵境駅に到着する。甲武鉄道開業時からの駅であり周辺には商業施設も多いが、三鷹・吉祥寺の両駅に近く商業地帯としてはあまり大規模なものではない。

西武多摩川線の高架が地上に降りて左手に分かれると間もなく小金井市に入る。東小金井駅周辺は東京農工大学法政大学など実に大学6校と高校3校が所在する文教地区だが、北口・南口共に大規模な商業施設はなく、少し閑散とした様相である。駅前ロータリーから50mほどのところに畑があるなど、近隣の他駅とくらべ郊外然とした雰囲気が特徴である。

武蔵小金井駅の手前(地上)には、開かずの踏切である東京都道15号府中清瀬線(小金井街道)の踏切があった。同駅を発車すると高架線から電車庫に通じる線路が分かれて下っていく。駅北西方向には東京学芸大学がある。右手に豊田車両センター武蔵小金井派出所(旧武蔵小金井電車区)を見ながら間もなく国分寺市に入る。

東京経済大学を左手に見ながら高架線を下りると、間もなく東京都道133号小川山府中線(国分寺街道)を跨いですぐ掘割となり、国分寺駅に到着する。元々快速と各駅停車のみの停車駅であったが、駅周辺の再開発によって大きく変貌し、現在では特別快速・通勤快速・通勤特快の全電車と成田エクスプレスが停車するようになった。また並行してホームがある西武国分寺線との間にはかつて渡り線があり、貨物列車の受け渡しが行われ、甲武鉄道時代には飯田町駅 - 川越駅間(現在の西武新宿線本川越駅)間直通列車まで運行されていた。さらにかつて下河原線が分岐し、廃止後もホームが残されていたが、駅構造が大きく変化した現在ではその面影はほとんどなくなり、高尾寄りの線路脇に廃線跡が残るのみである。

国分寺駅を発車すると右手に西武国分寺線が並行するが、野川を渡ると間もなく分かれ、右側に住宅街と姿見の池緑地保全地域を見下ろす。かつては左手に中央鉄道学園があり、前述の下河原線の廃線が中央鉄道学園への引き込み線として使用されていた。現在跡地は再開発が進められており、西側が団地、東側が武蔵国分寺公園となっている。旧鉄道学園は線路よりやや高くなっている。間もなく再び切り通しに入り、西国分寺駅に到着する。同駅は住宅街に囲まれているため乗降客はそれほど多くないが、武蔵野線に接続するため乗り換え客が多く、特に朝夕ラッシュ時は混雑する。

西国分寺駅を発車すると間もなく府中市をかすめるが、駅はなくすぐに再び国分寺市に入る。勾配を上り切ると上下線の間が広がり、間から武蔵野線の短絡線が地上に出てくる。下り勾配となって短絡線と合流し、国分寺崖線を越え国立市に入る。間もなく掘り割りを出て高架線を上る。国立駅は箱根土地(後のコクド、現在のプリンスホテル)の堤康次郎が計画した学園都市の最寄り駅として開業した経緯があり、駅南口から南・南西・南東の3方向に放射状に道路が伸びる。三角屋根の国立駅旧南口駅舎の屋根の形状はこの道路の形状を現していると云われる。南へ延びる東京都道146号国立停車場谷保線(大学通り)に沿って一橋大学桐朋中学校・高等学校など教育施設が多く立ち並び、駅から2km程南進したところに南武線谷保駅がある。また北側(所在地は国分寺市)には鉄道総合技術研究所があり、かつて同駅から引き込み線があったが、2004年に廃止され、現在その跡地は自転車駐輪場となっている。国立駅を発車すると両側に住宅街を見て走る。左側は学園都市の計画によって碁盤状に整備されている。

立川市に入ると次第に国立市から続く住宅街から商業地帯へと入っていく。前方にルミネが見え、高架線を下りると間もなく左手から南武線が合流、東京都道・埼玉県道16号立川所沢線(立川通り)を跨ぎ、立川駅に到着する。高尾寄りで直上を多摩都市モノレール線が跨いでいる。同駅はかつて日本国有鉄道東京西鉄道管理局が所在し、一部の中距離電車も発着する交通の要衝であり、現在は利用客の増加に伴い大規模な駅舎改良工事が進んでいる。また駅周辺は多摩地区でも随一の繁華街であり、北側・南側共に商業施設が軒を連ねている。

立川駅を発車すると右手に青梅線が分かれ、その先で中央線快速→青梅線直通電車や貨物列車などが使用する青梅短絡線が分かれると大きく左へカーブし南西を向き、切り通しに入り勾配を下っていく。

切り通しが終わり、武蔵野台地を抜けると残堀川を渡り築堤となり、東京都道29号立川青梅線(新奥多摩街道)を跨ぐと多摩川橋梁にて多摩川を渡り、日野市に入る。日野駅東京都道256号八王子国立線甲州街道)との交差部の築堤上にあり、利用客に対してホームが大変狭く、危険な状態になっている。日野市の中心部にあり、駅周辺には商業施設が広がるが、市内の豊田駅、高幡不動駅と比べると農地や住宅地の占める割合が大きく、同規模都市の中心駅にありがちな賑わいは弱い。

日野駅を発車すると中央自動車道を潜り、日野台地に入る。切り通しに入ると鉄道総合研究所の研究施設と共に本線に挟まれたホームのない待避線が現れる。開業時はこちらに日野駅が設置され、1937年に現在地に移転した後も同駅発着列車の折り返しに使用されていたが、発着列車がなくなった現在では一部の回送列車や臨時列車が使用するのみである。

国道20号日野バイパス)を潜ると日野台地を抜け築堤となり、緩やかに右へカーブしながら勾配を下っていく。カーブを抜けたところが豊田駅となる。同駅は日野台地南端の崖下にあり、駅北側は商業施設や工場が多いが、駅南側は北側ほど開発が進んでおらず少し閑散としている。発車すると間もなく左手に豊田車両センター(元豊田電車区)が広がり、201系E233系115系189系などさまざまな車両を見ることができる。周辺は住宅街だが、大規模な農地も多い。

右へ大きくカーブしながら新駅設置予定地を抜けて勾配を上ると切り通しに入りすぐに左へカーブする。ここは中央線で非常に有名な撮影スポットの一つで、列車の撮影をしている鉄道ファンの姿を目にすることも多い。そして切り通しと八王子盆地に入り、浅川を渡ると八王子市に入る。再び大きく右へカーブし北西を向くと右手に八王子卸売市場などの大型商業施設と日本オイルターミナルの引き込み線を見ながら勾配を上り、国道16号(八王子バイパス)を跨ぐと右手に八王子(貨物)駅(八王子オフレールステーション)を見る。前方にそごうが現れると間もなく京王線を跨ぎ、右手から八高線が合流、さらに左手から横浜線も合流し、八王子駅に到着する。かつて八王子機関区も所在し、現在もJR東日本八王子支社とJR貨物八王子総合鉄道部が所在する多摩地区の交通の要衝であり、構内には多くの側線がある。駅北側はかつて甲州街道最大の宿場八王子横山十五宿)であり、多摩地区の経済的中心として古くから発達、官公庁施設や大規模な商業施設が立ち並び、近年は中央大学を初め多数の大学を擁する学生街学園都市として大きな繁華街を形成している(ただし中央大学は八王子駅よりは立川駅の方がアクセスが良い)。駅から北東へ0.4km程離れた繁華街の東側には京王線京王八王子駅がある。一方で駅南側は再開発が進んでおり、2010年(平成22年)秋に地上41階の複合ビルが完成する予定。これにあわせ南口も北口同様ペデストリアンデッキ化される。

八王子駅を発車すると勾配を上り、東京都内では珍しい国道16号(東京環状)の踏切を渡る。1.5km程走ると大きく左へカーブし南西を向き、西八王子駅に到着する。八王子駅から続く市街地にあるが、駅南側を中心に住宅街も広がっており、教育施設も多く、朝夕は多くの学生で賑わう。

発車すると前方には関東山地が現れ、市街地から抜け住宅街をほぼ一直線で抜けていくが、2km程走ると右手に駐車場と化した空き地が見える。ここは東浅川駅の跡地である。同駅は大正天皇の大喪列車の終着駅として設置され、その後も皇室多摩御陵参拝に利用された。廃止後駅舎は八王子市に下賜され「陵南会館」という集会施設となっていたが、1990年過激派による放火で焼失してしまった。

東浅川駅跡地を過ぎると右へカーブしながら勾配を上り、東京都道47号八王子町田線町田街道)を跨ぎ勾配を上りきったところが高尾駅。左手に京王高尾線の高架線が見える。同駅は八王子盆地の西端にあり、駅北側と西側は共に山が迫る。駅南側は開発が進み、住宅街が広がっている。

データ[編集]

路線データ[編集]

東京駅 - 高尾駅間のもの(御茶ノ水駅 - 三鷹駅間では急行線に関するもののみ)。

駅一覧[編集]

ここでは電車特定区間内(東京駅 - 高尾駅)の設置駅と停車種別・接続路線・所在地を一覧表形式で記述する。高尾駅以西については「中央本線#駅一覧」を参照。また廃駅・廃止信号場については「中央本線#廃駅」を参照。

  • 特定都区市内制度適用範囲の駅 : [山]東京山手線内[区]=東京都区内
  • 停車駅
    • 特急以外の各種別:●印の駅は停車、|↓↑印の駅は通過(↓↑印はその方向のみ運行)
      • 各駅停車:御茶ノ水駅 - 三鷹駅間では緩行線を走行。○印の区間は早朝・深夜のみ運行(詳細は「中央・総武緩行線」を参照)
      • 快速:▲印の駅は土休日ダイヤ時は終日通過
      • 中央特快:新宿駅始発の下り列車は中野駅(◆印)を通過
      • ライナー=「中央ライナー」「青梅ライナー」
      • 高尾駅以西の区間は特急列車以外はいずれの種別も全駅に停車する。
    • 特急「あずさ」「かいじ」・臨時列車:列車記事参照
  • 接続路線 : 東京駅 - 新宿駅間の東日本旅客鉄道の路線名は運転系統上の名称(正式路線名とは異なる)。駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。
  • 所在地 : 全駅東京都
駅名 駅間
営業
キロ
累計
営業
キロ
停車種別 接続路線 所在地
各駅停車 快速 通勤快速 中央特快 青梅特快 通勤特快 ライナ丨 むさしの号 普通
[区][山] 東京駅 - 0.0     東日本旅客鉄道東北新幹線山形新幹線秋田新幹線上越新幹線長野新幹線山手線京浜東北線東海道線総武線(快速)横須賀線京葉線
東海旅客鉄道東海道新幹線
東京地下鉄丸ノ内線
東京地下鉄:東西線大手町駅
東京地下鉄:千代田線二重橋前駅
千代田区
[区][山] 神田駅 1.3 1.3     東日本旅客鉄道:山手線・京浜東北線
東京地下鉄:銀座線
[区][山] 御茶ノ水駅 1.3 2.6     東日本旅客鉄道:総武線(各駅停車)
東京地下鉄:丸ノ内線
東京地下鉄:千代田線 ⇒新御茶ノ水駅
[区][山] 水道橋駅 0.8 3.4     都営地下鉄三田線
[区][山] 飯田橋駅 0.9 4.3     東京地下鉄:東西線・有楽町線
都営地下鉄:大江戸線
[区][山] 市ケ谷駅 1.5 5.8     東京地下鉄:有楽町線・南北線
都営地下鉄:新宿線
[区][山] 四ツ谷駅 0.8 6.6     東京地下鉄:丸ノ内線・南北線 新宿区
[区][山] 信濃町駅 1.3 7.9      
[区][山] 千駄ケ谷駅 0.7 8.6     都営地下鉄:大江戸線 ⇒国立競技場駅 渋谷区
[区][山] 代々木駅 1.0 9.6     東日本旅客鉄道:山手線
都営地下鉄:大江戸線
[区][山] 新宿駅 0.7 10.3     東日本旅客鉄道:埼京線湘南新宿ライン・山手線
京王電鉄京王線京王新線
小田急電鉄小田原線
東京地下鉄:丸ノ内線
都営地下鉄:新宿線
都営地下鉄:大江戸線 ⇒新宿駅・新宿西口駅
西武鉄道新宿線西武新宿駅
新宿区
[区] 大久保駅 1.4 11.7      
[区] 東中野駅 1.1 12.8     都営地下鉄:大江戸線 中野区
[区] 中野駅 1.9 14.7     東京地下鉄:東西線
[区] 高円寺駅 1.4 16.1       杉並区
[区] 阿佐ケ谷駅 1.2 17.3      
[区] 荻窪駅 1.4 18.7     東京地下鉄:丸ノ内線
[区] 西荻窪駅 1.9 20.6      
吉祥寺駅 1.9 22.5     京王電鉄:井の頭線 武蔵野市
三鷹駅 1.6 24.1       三鷹市
武蔵境駅 1.6 25.7     西武鉄道:多摩川線 武蔵野市
東小金井駅 1.7 27.4       小金井市
武蔵小金井駅 1.7 29.1      
国分寺駅 2.3 31.4     西武鉄道:国分寺線多摩湖線 国分寺市
西国分寺駅 1.4 32.8     東日本旅客鉄道:武蔵野線
国立駅 1.7 34.5   東日本旅客鉄道:武蔵野線貨物支線(新小平方面) 国立市
立川駅 3.0 37.5 東日本旅客鉄道:青梅線南武線
多摩都市モノレール多摩都市モノレール線立川北駅立川南駅
立川市
日野駅 3.3 40.8     日野市
豊田駅 2.3 43.1    
八王子駅 4.3 47.4   東日本旅客鉄道:横浜線八高線
京王電鉄:京王線 ⇒京王八王子駅
八王子市
西八王子駅 2.4 49.8      
高尾駅 3.3 53.1     東日本旅客鉄道:中央本線(大月方面)
京王電鉄:高尾線

日野市には豊田駅 - 八王子駅間に西豊田駅(仮称)を設置する計画がある。そのため同区間の中間に設置を求める看板が設置されている。

過去の接続路線[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. JR Chuo Line。青梅線五日市線も同じくJC
  2. 通勤五方面作戦で線路別複々線の方式がとられたのは、工事のしやすさや、駅ホームのスペースを重視したためと考えられる。(曽根悟「都市鉄道における急行運転の技術」『鉄道ピクトリアル』710号 電気車研究会 p.10 - p.21)
  3. 1988年12月改正以降の特別快速停車駅と同一。1986年11月当時の特別快速は国分寺駅を通過していた。
  4. 東海道線は起点から40.9km先の戸塚駅以遠、総武線は起点から39.2km先の千葉駅以遠、宇都宮線は起点から30.3km先の大宮駅以遠、常磐線は起点から31.3km先の我孫子駅以遠(常磐線以外は東京起点、常磐線のみ日暮里起点)が各駅停車区間となるが、中央線は東京駅から14.7km先の中野駅以遠が平日は各駅停車区間となっており、他路線よりも快速運転区間が短くなっている。
  5. 平日の東京駅 - 中野駅間、土休日の東京 - 吉祥寺駅間で「快速」を表示。上り電車は全区間に渡り表示する。
  6. 東海道線などは15両編成で運転しているが、編成が長くなると最小運転時隔も長くなる。古い例ではあるが1964年ごろ、中央線快速が101系で既に10両2分間隔運転で限界とされていたとき、東海道線では15両3分間隔が限界と考えられており、この両者の比較では編成を長くしても輸送力は増大させられない(小沢耕一「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』156号 電気車研究会 p.4 - p.6)。一方常磐線については15両で2分30秒間隔が可能という1985年頃の意見もある(曽根悟「理想の通勤車両」『鉄道ピクトリアル』451号 電気車研究会 p.20 - p.24)。ただし中央線快速ではそれ以外に車両留置線不足も深刻な問題である(向井慧文「1960年台の中央線の輸送状況」『鉄道ピクトリアル』796号 電気車研究会 p.56 - p.62)。

出典[編集]

  1. 中央快速線および青梅・五日市線に新型電車を導入! - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2005年10月1日
  2. 『鉄道ピクトリアル』No.796 電気車研究会 p.59。
  3. 1951年(昭和26年)4月14日日本国有鉄道公示第104号「中央本線三鷹停車場から武蔵野競技場前停車場に至る鉄道において運輸営業開始」
  4. 1959年(昭和34年)10月26日日本国有鉄道公示第386号「中央本線三鷹・武蔵野競技場前間の運輸営業は廃止する件」
  5. 東京圏輸送管理システム(ATOS)の展開と更新」『JR East Technical Review』No.36 Summer 2011、東日本旅客鉄道、p.64
  6. 信号制御システムの開発概要 - 東日本旅客鉄道
  7. JR中央線、11日始発から通常運転へ 影響50万人インターネット・アーカイブ)- 朝日新聞 2008年4月10日
  8. 休講:亜大、ICU、一橋大がJR中央線火災で(インターネット・アーカイブ)- 毎日新聞 2008年4月10日
  9. 9.0 9.1 9.2 2013年3月ダイヤ改正について - 東日本旅客鉄道八王子支社プレスリリース 2012年12月21日
  10. 10.0 10.1 10.2 RP2003-9 46-52頁「JR各社の快速運転状況 JR東日本 東京圏」
  11. RF1984-3 31頁「国電中央線の問題個所」
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 RP2003-9 10-24頁「大都市圏での快速運転の発達 -国鉄時代を中心に-」
  13. 13.0 13.1 RP2003-9 34-35頁「JR東日本 東京圏の「通勤快速」」
  14. 例としては『鉄道ピクトリアル』No.796 電気車研究会 p.23
  15. 2010年12月ダイヤ改正について - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2010年9月24日
  16. 『鉄道ピクトリアル』No.796 電気車研究会 p.28 -p.29
  17. 「さよなら中央線201系」キャンペーン<第1弾>を開催します - 東日本旅客鉄道八王子支社プレスリリース 2010年2月25日
  18. 「さよなら中央線201系」キャンペーン<第2弾>を開催します - 東日本旅客鉄道八王子支社プレスリリース 2010年6月17日
  19. 沢和哉 (1996) 沢和哉 [ 日本の鉄道ことはじめ ] 築地書館 1996 4-8067-5595-8 pp.95-97
  20. 鉄道ファン』No.526 交友社 p.20
  21. ネットワーク信号システム - 東日本旅客鉄道
  22. お詫び(インターネット・アーカイブ) - 東日本旅客鉄道
  23. JR中央線工事、8時間遅れ終了 配線ミスで信号故障(インターネット・アーカイブ)- 朝日新聞 2003年9月29日
  24. 2004年7月21日、11月9日付け交通新聞
  25. 中央線高架化工事に伴う踏切しゃ断時分の改善等について - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2003年10月15日
  26. 2004年5月19日付け交通新聞
  27. 山之内秀一郎 『JRはなぜ変われたか』 毎日新聞社、2008年、ISBN 978-4-620-31832-5


関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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