日大紛争

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日大紛争(にちだいふんそう)は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。日大闘争とも呼ばれた。

概説[編集]

当局の不正経理に対する学生の抗議行動に端を発し、秋田明大経済学部)を議長する日大全共闘を中心に一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。同年9月には学生側が大衆団交と呼ばれる要求を行い、古田重二良会頭などの日大当局に経理の全面公開や全理事の退陣を約束させたが、まもなく当局はこれを反故にし、学内に機動隊を導入して全共闘による校舎の封鎖を解除。日大全共闘も急進化により一般学生の広範な支持を失い、1969年(昭和44年)春には紛争は収束した。日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した。

機動隊による封鎖解除の際、学生からの投石を受けた警察官1人が殉職したほか、学生・機動隊双方に多数の負傷者が出た。その責任をとって、永田菊四郎総長は辞職し、新たに歯学部長の鈴木勝が日大総長となった。また、日大理事長には新たに高梨公之が理事長となる。なお、古田は新たに日大会長となったが、紛争収束後に日大全共闘の追及に対して偽名を名乗りながら1970年(昭和45年)に日大付属病院で死去した。

背景[編集]

1960年代後半に日本では団塊の世代が18歳となり、18才人口の急増および大学進学率の向上により大学生の数が急伸して、大学教育の性格は大衆化しつつあった。日本大学はその潮流に乗り、1955年(昭和30年)には約3万人だった学生数を1968年(昭和43年)には約3倍の8万5000人まで急増させ、日本一のマンモス大学となっていた。一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生の不満が高まっていた。キャンパスは三島教養部、工学部、農学部は広いが、法学部・経済学部・歯学部・理工学部は狭く、授業料は毎年のように値上げされ、講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式、いわゆるマスプロ方式が中心であった。学生側も当局に環境改善を求める自治運動を起こしていたが、要望の多くは通らず、古田重二良会頭によるワンマン経営の下、当局は学生の自治運動や政治運動を抑圧する方針をとっていた。古田会頭は大学経営に絶大な影響力を有していたため、これに批判的な人からは「日大帝王」「独裁者」などと呼ばれ、紛争時は全共闘から主要な攻撃対象とされている。

紛争前の学生運動[編集]

日大紛争以前にも日大には学生の自治的運動が起きていた。1966年(昭和41年)学生連合会は、1.専任教員教授の充実、2.ゼミナールの増加、3.新入生オリエンテーションと休講対策と実習・実験対策、4.専門図書の増加購買の拡大、5.校舎の建設、6.学生寮・厚生寮・学生会館の建設、7.自由なグランドの建設、8.集会・出版の許可制から届出制の導入を要求した。

学生運動として日本共産党の日大細胞として三島予科闘争がおきた。日本大学の建学の精神と学風と伝統から私学連に加盟したが、左翼学生運動・安保運動の全学連には加盟せず日本大学は学生の政治活動を制限した。安保闘争に参加した学生に対して永田総長、古田会頭は不参加を呼びかけて、日大学部祭で学生自治会は許可制度から届け出制度にマスプロ教育改善を求めた。自由な学生自治会活動・政治活動をもとめて日大紛争の芽要因となった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 小熊英二 『1968.上-若者たちの叛乱とその背景』 新曜社、2009年7月。
  • 「増補叛逆のバリケード」(三一書房、1969年)
  • 「新版叛逆のバリケード」(三一書房、2008年)ISBN-13: 978-4380082245

外部リンク[編集]