憲政本党

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憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代日本政党である(1898年11月3日 - 1910年3月13日)。

概要[編集]

1898年、自由党進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく旧進歩党系は11月3日にこちらもほぼ旧憲政党の綱領を継承した憲政本党を発足させた。これにより11月8日に大隈内閣は倒れた。

憲政本党は第2次山縣内閣と連携した憲政党に対抗して野党として地租増徴に反対した。だが、1900年伊藤博文立憲政友会を結成して憲政党が党を解散してこれに加わると、憲政本党からも尾崎行雄らが離反して政友会に加入した影響により党勢不振に陥ったため、空席となっていた総理(党首)に大隈重信を擁立して伊藤の政友会に対抗した。だが、その後も北清事変後の増税問題を巡る議員の離党(三四倶楽部結成)や足尾銅山鉱毒事件を巡って党の対応を批判した田中正造の離党などによって不振状況が続いた。そこで第1次桂内閣では政府の政策を支持して政権参加を目論むものの、桂内閣に拒否された。そこで政友会と同盟を結んで政権を崩壊寸前にまで追い込む一方、国民同志会と結んで対外硬運動を主導した。ところが、その後桂と伊藤の妥協が成立して孤立、しかも対外硬派が主張してきたロシアとの開戦(日露戦争)によって政府と対立する名目を失って全面協力をせざるを得なくなった。しかも、ポーツマス条約に反対したことにより、結果的に桂内閣を支持して条約を止むなしとした政友会と桂内閣の連携を強める結果となり、政権は政友会の西園寺公望に移ることになった(桂園時代)。そこで憲政本党は第1次西園寺内閣による鉄道国有化に反対する一方で、桂太郎と西園寺内閣の間の離反を画策した。だが、党の再建策を巡って大隈と他の幹部の間の対立が激化、1907年1月20日には大隈が総理を辞任して引退を表明した。

その後、大石正巳を中心とした桂や吏党系政党などと合同して反政友会新党を結成しようとする「改革派」と立憲改進党以来の民党路線を擁護する犬養毅を中心とした「非改革派」が対立を続けた。1909年に改革派が掌握していた党執行部は犬養除名を決定する。しかし、代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効としたため党分裂の危機に陥った。ところが、直後に日糖事件が発生して改革派側から逮捕者を出すと、流れは一気に非改革派に傾いた。このため、改革派は犬養の除名を取り下げて非改革派に屈することになった。その後、又新会戊申倶楽部などの民党系非政友会各党の合同によって立憲国民党となり解党する。だが、改革派・非改革派の対立が収拾されたわけではなく、大正政変を機に同党の分裂を招く遠因となった。

関連項目[編集]