島原の乱

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島原の乱(しまばらのらん)とは江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの内戦の一面しか見ていない(原城の籠城にて詳述)。この乱は一般に寛永14年10月25日1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日1638年4月12日)終結とされている。

勃発まで[編集]

松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後天草諸島の農民をはじめとする諸領民が百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害も加わり両藩に対して反乱を起こした乱である。キリシタン(カトリック信徒)の宗教戦争と殉教物語として語られることも多いが、それらはあくまで一面でしかない。なお、ここでの百姓とは百姓身分のことであり貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業漁業手工業商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。さらに一揆には有馬小西両氏の浪人、更には元来の土着領主である天草氏志岐氏の与党などが加わっていたことからも、一般的な「竹槍、筵旗」というイメージは正確ではない。

島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であった。豊臣秀吉や徳川政権の時代に禁教政策がはじまると慶長19年(1614年)、有馬氏は転封となり代わって大和五条から松倉重政が入部する。重政は徳川家臣団の中での地位の向上を図り、江戸城改築の公儀普請役や彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城の新築のための過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を始める。その弾圧の残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。次代の松倉勝家も重政の圧政を継承し、さらに過酷な取立てを行った。天草も島原同様キリシタン大名・小西行長の土地で関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧を行う。

原城の籠城[編集]

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てて寛永14年10月25日(1637年12月11日)、代官林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。ただし、この一揆は島原半島雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功しここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功せず北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として一揆に加わることを強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功、乱に巻き込まれずに済んだ。

肥後天草でもこれに呼応して領民が蜂起。佐々成政・小西・加藤忠広の改易により肥後で大量に発生していた浪人も吸収し天草の一揆軍は総大将として宗教的カリスマ性を持つ当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞。天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を担ぎだし、富岡城本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、富岡城代の三宅重利(藤兵衛、実は明智秀満の子)を討ち取った。富岡城は北丸が陥落し落城寸前まで追い詰められたが本丸陥落寸前に九州諸藩の軍が到着したため、一揆軍が後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、ここに島原と天草の一揆勢は合流して島原城に押し寄せたがその堅牢な防備に苦戦し後詰攻撃の危険が迫ったため撤退、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城、原城址に篭城した。その数3万7000であった。

『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録はすべて反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いているが要出典領主・勝家は自らの失政を認めず、反乱を起こした一揆がキリシタン信仰を結束の核としていたことをもってこれを反抗的なキリシタンの暴動と主張した。要出典幕府も以後、島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という一面的な見方が定着した。

乱の発生を知った幕府は上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した。重昌は城攻めの常道として長期包囲を行おうとしたが九州の諸大名は統制がとれず、幕府の命令との間で板ばさみになった。さらに幕府から2人目の上使筆頭老中松平信綱が派遣されるに及んで、焦った重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に強引な力攻めを行い、討ち死にした。信綱は初めから強攻策をあきらめて兵糧攻めを行い、オランダ船デ・ライプ号に依頼して海からの砲撃を行いさらに陸揚げした船砲五門を城内に撃ち込んで一揆勢を弱体化させ、落城に持ち込んだ。最終的に幕府軍の攻撃とその後の処刑によって老若男女3万7000人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)1人であった(ただし、原城の断崖絶壁の海側の崖を降りて海草兵糧の足しにしたりその崖を降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もあるため、実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説もある)。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。要出典なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏(天草・志岐・柄本)のうち取り潰された天草・志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(柄本家は細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

幕府軍

総計 12万5800人(上使板倉重昌以下死者1900人 負傷11000人)

籠城軍

総計 3万7000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、2万7000人など異説あり。前述通り総攻撃直前に内通した山田右衛門作1人を除きほぼ総攻撃時に、原城に篭っていた全員が死亡)

これによって島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は乱への参加の強制を逃れて潜伏した者、僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府は禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の際の拠点として使えぬようにするため、破壊がいっそう進むことになった。

島原の乱以後の天草[編集]

島原の乱が天草と連動した原因の1つは、広高が天草の石高を過大に算定したことにあった。広高は天草の石高を田畑の収穫を3万7000石、漁業などの運上を5000石、合計4万2000石と決定した。しかし実際にはその半分が妥当な数字であった。広高が石高を実際の生産量の2倍に算定したため徴税は過酷となり、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを一揆に追い詰め武士身分から彼らと同じ百姓身分に転じており村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として密かに一揆の盟約が成立、さらには反乱に立ち上がることによる内戦に至ったのである。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが3年で讃岐国丸亀に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。鈴木はの教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き住民の教化につとめた。一方、住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域(例えば大矢野島など)には周辺の諸藩から移住者を募って復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、幕府に対して何度も天草の石高の算定を半分の2万1000石にするよう訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。重辰もまた天草の石高半減を訴えたため、万治2年(1659年)に幕府は天草の石高半減を認めた。

重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためである。さらに忠昌は離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、広高による天草の実情を無視した統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。

天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように根こそぎ住民が反乱に動員されることが容易でなく無人地帯が広がらなかったことや江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産する海鼠鱶鰭などの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタン信仰の過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。

関連項目[編集]

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