宇都宮徳馬

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宇都宮 徳馬(うつのみや とくま、1906年9月24日 - 2000年7月1日)は、日本政治家実業家正三位勲一等 参議院議員衆議院議員ミノファーゲン製薬創設者。軍縮日中友好に尽力し、日中友好協会会長、名誉会長を務めた。日本の保守政治家では最左派の系譜に連なる。

経歴[編集]

1906年(明治39年)9月24日陸軍大将朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎の長男として東京府に生まれる。父の意志で東京府立一中を経て東京陸軍幼年学校(24期)に入学するが、中退し旧制水戸高等学校に入学する。水戸高校時代にマルクス主義に感化される。1928年昭和3年)京都帝国大学経済学部に入学する。京都帝大では、河上肇に師事し社会科学研究会に参加する。同年には日本共産党の一斉検挙、すなわち三・一五事件があったが、宇都宮は事件後の同会においてリーダーを務める。しかし、論文が不敬罪に問われて検挙され、京大を退学する。その後、共産党に入党し、1929年(昭和4年)治安維持法違反で逮捕され約1年間投獄される。

獄中で転向を表明。釈放後、株式相場で満州事変に関係した軍需企業の株式に投資し大金を得る。これを資金に1938年(昭和13年)医者向けの製薬会社として合資会社ミノファーゲン製薬本舗を設立、社長となる。また、会社経営の傍ら「高杉俊輔」のペンネーム読売新聞経済欄に寄稿し、軍部革新官僚に対する批判を行った。

戦後の1952年(昭和27年)第25回衆議院議員総選挙自由党公認で旧東京2区から立候補し当選する。以後当選10回。1955年(昭和30年)の保守合同で自由民主党に参加する。宇都宮は石橋湛山三木武夫系の政治家として外交問題を中心に活躍し、平和共存外交、日ソ国交回復や日中・日朝の国交回復を主張するなど保守政治家の中では極めて異色の存在であった。また、アルジェリア戦争に際してアルジェリア民族解放戦線(FLN)を援助し、同国が独立後親日的な政策を採ったのはこのためだとされる[1]。だが、石橋の引退後は自民党でも右派の政治家達に疎まれて入閣を阻まれるなど、次第に党内で孤立を深めるようになる。1976年(昭和51年)ロッキード事件金大中事件への対応や三木おろしに反発し自民党を離党し、議員も辞職した。

1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し当選後、同じく無所属の鳩山邦夫麻生良方とともに衆院無党派クラブを結成し代表に就任、1978年(昭和53年)12月に解散した。1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に立候補するが落選するも、1980年(昭和55年)参議院選挙東京地方区に新自由クラブ社会民主連合の推薦で無所属で立候補し当選した。この立候補は民社党の擁立した、栗栖弘臣有事法制を公約としたことに危機感を抱いたためであった。同年、宇都宮軍縮研究室を創設し、月刊誌『軍縮問題資料』を発行する(ここでも、参院選立候補のいきさつに触れている)。

1986年(昭和61年)第14回参議院議員通常選挙(衆参同時選挙)に際し、山本コウタロー國弘正雄片岡勝らが、平和運動を主体とした政党「ピース・スタジオ」を立ち上げ、宇都宮徳馬を比例代表名簿1位に据えて選挙に打って出ようとしたが、宇都宮徳馬が三木武夫から「20億円かかるぞ。」と言われて断念。その直後、小杉隆の説得に応じて新自由クラブの比例代表名簿1位に掲載され比例区で当選する。新自由クラブ解党後は無所属を貫き、田川誠一が代表の進歩党にも間接的に協力。任期満了の1992年(平成4年)、85歳で政界引退する。

2000年(平成12年)7月1日肺炎のため死去。93歳。

エピソード[編集]

かつて北朝鮮の国家主席金日成と会談した際、面と向かって「政治家は一代限りにすべきです」と諫言したという。すでに後継者は息子の金正日に決まっていた時に敢えてそう言ったのだ。これに対して金日成は「本当の友人の直言はうれしいものだ」と微笑みながら応じたという。

脚註[編集]

  1. 福井英一郎(編)『世界地理9 アフリカI』朝倉書店 p.236

関連項目[編集]