天王寺

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1890年代の大阪天王寺

天王寺(てんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区南部と阿倍野区北部の地域名称。

概要[編集]

一般的には天王寺駅および南に隣接する大阪阿部野橋駅周辺を指し、ほぼ同じ範囲を阿倍野(あべの)とも呼ぶ。

当地を指す場合に天王寺が優勢なのは、駅の開業順や規模のちがい、南へ約500m離れた阿倍野駅との混同を避けるため、もとの集落の位置が天王寺は四天王寺周辺と近いが、阿倍野は阿倍王子神社周辺(後述の旧阿部野村の区域に概ね相当する)とかなり遠いことなどが考えられる。

JR西日本大阪市営地下鉄の天王寺駅、近鉄の大阪阿部野橋駅、阪堺電気軌道天王寺駅前駅路線バス高速バス(路線バス・高速バスはバスのりばの位置に関係なく、一般に「あべの橋」の名称を使う)が集中するターミナルとなっており、周辺はキタミナミに次ぐ規模の繁華街を形成している。特に近隣するミナミの難波とは大阪市街の南玄関としての機能を二分する。

地域名称としては劣勢の阿倍野ではあるが、当地における繁華街の形成は大鉄時代から近鉄の先導によるところが大きく、こと繁華街を指す場合は阿倍野が優勢に転じる。大型商業施設には、天王寺ミオ近鉄百貨店あべのハルカス近鉄本店、あべのキューズモールあべのルシアスなどがある。地下街は谷町線改札上階のあべちか、御堂筋線改札内外のekimo天王寺と各大型商業施設の地下階がある程度で、あまり発達していない。

繁華街の他にも天王寺公園大阪市天王寺動物園、四天王寺といった観光地としての表情も併せ持っており、老若男女を問わず賑わいを見せている他、周辺には学校も多く文教地区としての側面もある。また、天王寺公園とあべのキューズタウンの西方には新世界飛田新地が位置する。

歴史[編集]

天王寺は、四天王寺の略称として平安時代から使用されていたが、当地で合戦が繰り広げられた南北朝時代から地名に転化した。駅北西に位置する一心寺から生國魂神社にかけては「夕陽丘」と呼ばれ、上町台地はこの辺りが急崖になっており、落陽の眺めが良い。

阿倍野は、四天王寺 - 住吉大社間の上町台地上および西斜面を指す地名で、摂津国から和泉国に至る交通の要衝地だったが、高燥地であるために荒涼とした原野が広がっていた。中近世には「阿部野」と表記されることが多く、現在でも大阪阿部野橋駅や阿部野神社にその名残をとどめている。地名の由来として最も有力な説は「阿倍寺」やその建立者である「阿倍氏」とされ、これに基いた表記である「阿倍野」が近現代においては主流となっている。しかし、別地名との誤認を避けるために仮名で表記されることも多い。

近世には東成郡天王寺村と阿部野村が成立する。天王寺村は既存の7つの集落と四天王寺門前の町場に加え、天明寛政年間に天下茶屋を編入して約1万人の人口を擁する大村であった。一方、阿部野村は1618年元和4年)に天王寺新家阿部野村として成立し、1663年寛文3年)に天王寺村から分村した人口約300人の小村で、範囲も狭く、現在の阿倍野区松虫通、晴明通、相生通、阿倍野元町、王子町、阪南町の2 - 4丁目付近にすぎなかった。1889年明治22年)に天王寺村と阿部野村が合併して東成郡天王寺村町村制)となった。なお、以降の行政区域の変遷については天王寺村を参照のこと。

大坂城下(大坂三郷)には接していないものの、上町台地の空堀(大坂城南惣構堀の遺構)以南には大坂最大の寺町が四天王寺にかけて形成されており、実質的に大阪市街の南東端に位置していた。東から竜田越奈良街道が四天王寺へ伸び、この道に沿って1889年(明治22年)に大阪鉄道 (初代)が現在の関西本線天王寺駅を設置。この際に上町台地の掘割部に「阿倍野橋」が架橋された。1895年(明治28年)には現在の大阪環状線の一部も開通し、早くもターミナル駅となった。

大阪市街へ頭を向けた頭端式ホームを採用した難波駅、湊町駅(現在のJR難波駅)、汐見橋駅の3駅が、延伸の余地がない上に難波村の早期市街化で地上が手詰まりになっていたのに対し、天王寺駅の南側は農村地帯のままで余地があった。1923年大正12年)に大阪鉄道 (2代目)が現在の近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅を、1929年昭和4年)に阪和電気鉄道が現在の阪和線天王寺駅を設置。天王寺駅は大阪駅梅田駅)に次ぐ鉄道結節点となり、上述の通り大阪市街の南玄関は現在も難波と天王寺に二分されている。

商業施設・地下街[編集]

寺院・主要施設[編集]

鉄道[編集]

道路[編集]

関連項目[編集]

その他[編集]

天王寺の舞い堂から舞を舞えとの毎度の使い、毎度のように舞が舞えますなら参って舞も舞いましょうが、毎度のように舞が舞えませぬゆえ参って舞は舞いませぬ(早口言葉)。