ダッカ事件

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ダッカ日航機ハイジャック事件(ダッカにっこうきハイジャックじけん)は、1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件である。

概要[編集]

ハイジャック発生[編集]

1977年9月28日に、フランスパリシャルル・ド・ゴール国際空港東京国際空港(羽田)行きの南回りヨーロッパ線日本航空機472便(ダグラスDC-8-62型、JA8033、乗員14名、乗客137名、犯人グループ5名)が、経由地のインドムンバイ空港を離陸直後、拳銃手榴弾等で武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。

同機はバングラデシュダッカ国際空港に強行着陸し、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の9名(奥平純三城崎勉大道寺あや子浴田由紀子泉水博仁平映植垣康博知念功大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。

この際犯人グループから、「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付いており、この無意味な「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もある。

なお、ハイジャックの発生を受けて、日本政府は急遽運輸政務次官石井一を派遣団長としたハイジャック対策の政府特使を、日本航空の特別機でダッカに送り、事件対策に当てることとなった。

軍事クーデター[編集]

なお、バングラデシュではこの事件中に、軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って軍事クーデターが発生した。その後戒厳令が発令され、最終的に反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり政府軍の士官が死亡するなど現地は緊迫した。

超法規的措置[編集]

日本国政府は議論の末、10月1日福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金600万ドルの支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断。釈放要求された9人の内、植垣康博は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念功は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村寿雄は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と3人が釈放および日本赤軍への参加を拒否した。

日本政府は身代金と釈放に応じたメンバーなど6人を日本航空特別機(ダグラスDC-8-62型 JA8031)でダッカへ輸送した。過激派が日本政府に対して拘留メンバーの釈放要求をして釈放させたのは1975年のクアラルンプール事件以来2回目となった。

なお、検事総長神谷尚男と、法務大臣福田一は、この様な「違法措置」の施行に対して強硬に反発した。しかし施行が決定され、後に福田法務大臣は「引責辞任」した。

10月2日に人質との交換が行われ、乗員乗客のうち118名が解放された。10月3日に、残りの人質を乗せたままハイジャック機は離陸、クウェートシリアダマスカスを経て人質17名を解放、アルジェリアのダル・エル・ペイダ空港に着陸し、同国当局の管理下に置かれた。日本赤軍がアルジェリアを選んだのはアルジェリアがハイジャック防止条約を結んでなかったためである。この時点で残りの乗客乗員も全員解放され、事件は終結した。

事件の影響[編集]

なお、事件解決に多大な協力を受けた上に、クーデターのきっかけを作ってしまったことを受け、事件解決後に日本政府はバングラデシュに謝礼と謝罪の意味を含めて特派使節を送ることとなった。

また、この事件における日本の対応は、一部諸外国から「(日本から諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。

だが、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件ハーグ事件などを参照)かかる非難や、その非難を理由とした当時の政府に対する現代的視点からの批判は的を射ていない。そのため当時世界各国では、この様な事件に対処する為に対テロ特殊部隊の創設が進められつつある所だった。

このテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、ダッカ事件と同じ年に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。西ドイツ政府は、ミュンヘンオリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出した。

同年、日本政府はGSG-9の成功例を参考に、ハイジャック事件に対処する特殊部隊警視庁大阪府警察に創設した。また、アメリカ合衆国もGSG-9の突入作戦を教訓として、陸軍デルタフォースを設立した。

日本警察の特殊部隊は、創設当初、特科中隊もしくは零中隊などと呼ばれており、部隊の存在自体が長期間、非公開とされていたが、1995年に発生した全日空857便ハイジャック事件に出動し、犯人を逮捕、人質を救出したことで世間に知られるようになった。その後、これらの特殊部隊は部隊を増設し、装備を強化した上で、SAT(Special Assault Teamの略称)と呼ばれるようになった。

後日談[編集]

「モガディシオ事件」[編集]

詳細は ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件 を参照

ダッカ日航機ハイジャック事件から、1ヶ月も経たない1977年10月13日、スペイン領マリョルカ島パルマ・デ・マリョルカフランクフルト行きのルフトハンザ・ドイツ航空615便(ボーイング737型機)が、『黒い九月』を名乗る西ドイツ赤軍(バーダー・マインホフ・グループ)と、PFLPの混成グループにハイジャックされ、ソマリアのモガディシオに着陸させられた。

テロリストは西ドイツ政府に対して、身代金と政治犯釈放を要求したが、10月17日、ミュンヘンオリンピック事件をきっかけに創設された、西ドイツの特殊部隊「国境警備隊第9グループ(GSG-9)」が航空機に突入し、テロリストを制圧、人質全員を救出した。 なお機長1名がテロリストにより射殺され犠牲となったものの他の乗員乗客は無事だった。西ドイツ赤軍は、内容からしてダッカ日航機ハイジャック事件を参考にしたようだが、GSG-9により制圧される結果となった。

ハイジャック機その後[編集]

ハイジャックされたDC-8-62型機(JA8033)はその後日本国内へ戻され、ハイジャック犯人による爆弾の爆発実験により一部が破損した機内トイレの修繕や、機内清掃などが施された後に通常運航へと戻され、1984年まで日本航空で使用された後にメキシコアエロメヒコ航空へと売却され、1990年代前半まで運行された。

日本航空クアラルンプール墜落事故[編集]

ダッカ事件発生前日、日本航空715便がマレーシアクアラルンプールへ着陸する途中に空港手前のゴム園に墜落する事故を起こしていた。その為、日本航空は事件と事故の対応に追われていた。

釈放要求されたメンバー・実行犯メンバーのその後[編集]

釈放された6人メンバーの内、1986年に泉水博が逮捕、1996年に城崎勉が逮捕、1997年に浴田由紀子が逮捕されている。また実行犯として丸岡修西川純が逮捕され、実刑判決を受けている。和光晴生はこの事件では訴追されず、別事件で訴追され実刑判決を受けている。

ハイジャック犯人グループ[編集]

釈放要求された9人[編集]

釈放要求された9人のメンバー
メンバー 所属 拘留 釈放
要求
その後
奥平純三 日本赤軍 東京拘置所 ハーグ事件
クアラルンプール事件
同意 国外逃亡中
城崎勉 赤軍派 府中刑務所
(懲役10年)
横浜銀行M作戦 同意 1996年9月にネパールで拘束
アメリカで懲役30年
大道寺あや子 東アジア反日武装戦線 東京拘置所 連続企業爆破事件 同意 国外逃亡中
浴田由紀子 東アジア反日武装戦線 東京拘置所 連続企業爆破事件 同意 1995年3月にルーマニアで拘束
1995年3月日本に身柄送致
2004年8月に懲役20年確定
泉水博 獄中者組合 旭川刑務所
(無期懲役)
殺人事件 同意 1986年6月にフィリピンで拘束
日本に身柄送致
1995年3月に懲役2年追加確定
仁平映 獄中者組合 東京拘置所
(一審懲役10年)
殺人事件 同意 国外逃亡中
植垣康博 連合赤軍
(赤軍派)
東京拘置所 M作戦 拒否 1993年2月に懲役20年確定
1998年10月に出所
知念功 沖縄解放同盟 沖縄刑務所 ひめゆりの塔事件 拒否 ??
大村寿雄 京都刑務所 京都地方公安局爆破事件 拒否 ??

関連項目[編集]

注釈[編集]