間宮六郎

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間宮六郎(珍物子 1909 181)

間宮 六郎(まみや ろくろう、1831年9月13日 - 1902年12月)、直教(なおのり?)、金之丞(きんのじょう)、外記(げき)、正万(まさかず?)は、幕末明治期の尾張藩の藩士。1847年に17歳で藩の用人となる。1858年(安政の大獄のとき)に病により辞職したが、1860年に年寄となり、1864年の第1次長州征伐に先鋒として従軍。1865年に年寄加列となり、同年の第2次長州征伐では前尾張藩主・徳川玄同に従って大坂へ行き、調停工作を行った。1867年の大政奉還のあと徳川慶勝が京都の朝廷へ召し出されたとき、国元に残って徳川義宜佐幕派に擁立されることを阻止し、翌1868年に尾張へ戻った慶勝に佐幕派に対する処罰断行を進言した(青松葉事件)。同年の戊辰戦争では、執政として美濃太田に置かれた尾張藩の本営で軍戦を計画。翌年東方総管を兼務し、農兵の編制と民政の総括を担当した。同年名古屋藩権大参事。1871年に廃藩置県により辞職し、以後尾張徳川家の顧問(相談役)を務めた。

経歴

天保2年8月8日(1831年9月13日)生まれ[1]

天保13年(1842)、父・外記の家を継ぎ、世禄3,000石を領する[1]

初め直教、金之丞、次に外記、六郎と称した。正万。[2]

弘化4年(1847)、17歳のとき用人となる[1]

  • 中村 (1910 72)は、17歳で用人に登用されたのは異例だった、としている。

嘉永3年(1850)、大番頭に転じる[1]

  • 中村 (1910 72)によると、間宮は用人となってから最初の3年は、黙っていて意見を言わず、同僚からは無能と嘲けられていた。間宮が自語していたのは、普通の事務をするのに役人はよく話をするので、自分が何か意見を言う必要はないということだった。大番頭となってから、武芸の訓練が廃れてしまっていて、武士道が振わないという事をよく主張するようになった。

安政5年(1858)、病により、辞職[1]

万延元年(1860)、年寄に列した[2][1]

元治元年(1864)、前藩主・徳川慶勝が征長総督として出陣した時、部下の士卒を率い、先鋒として広島に至った[1]

  • 「部伍整粛1人の軍規を犯す者なし」(中村 1910 72)

慶応元年(1865)、年寄加列となり、国政を執った[1]。同年、将軍・徳川家茂が再び長州征伐のため出兵し、前尾張藩主・徳川玄同を従軍させたとき、玄同に従い大坂に至った。玄同が従軍を免ぜられ、留守として海路江戸に赴くことになると、またこれに従って名古屋に戻った。[3]

  • 中村 (1910 72-73)によると、将軍・家茂が大坂へ向かう途中で名古屋城に宿泊したとき、以前、慶勝が長州藩に対する措置に満足しなかったため、成瀬正肥の謁見を許さなかったことがあり、そのため、藩主は総督参謀だった田宮如雲を幽閉した。このとき、尾張藩内の佐幕派は、藩政に就いていた勤王派の人士を弾圧しようとし、国老がこれを議論した。このとき間宮が固く反対し、結局弾圧は実施されなかった。
  • また同書によると、間宮が玄同に従って大坂へ行くことを危険だといって止めた人がいたが、間宮は笑って「ご好意はありがたいが、この入り組んだ木の根を伐るのにはよく切れる刀よりも鈍い刀の方がいいということはわかっている。だから心配されるな」と言っていた。結局、間宮は玄同に従って大坂から江戸へと従行し、密かに調停をして尾張藩内の内紛も事無きを得た。

慶応3年(1867)10月、徳川慶喜が将軍職を辞し、政権を奉還すると、朝廷は慶勝を召し出し、慶勝は勤王派の藩士を率いて入朝した。間宮は藩主・義宜を補佐して、名古屋城の留守居役をした。[4]

明治元年(1868)正月、名古屋藩に伏見で開戦との報告があったが、勝敗についての確報は得られていなかった。佐幕派は、官軍が形勢不利と流言を放って、藩士を誘引し、幼い藩主・徳川義宜を擁して、大阪城へ向おうとした。間宮はこのことを聞くと、人を京都に使わして慶勝に事情を報告し、名古屋城内に入って、義宜の警護を固くして居室の外へ出ることがないように命じ、自ら昼夜を問わず城内に起臥して、城門を戒厳した。このため、佐幕派は義宜を擁立することができなかった。[5]

慶勝は勅命を奉じて国に帰ると、清洲駅に待機して、人を使って名古屋城を偵察させた。間宮は、「速かに城に入って、姦徒を鋤き(佐幕派を一掃し)、藩の向かう方向を定めてください」と言上し、慶勝は翌朝、城に入り、佐幕派の処分について議論した。執政某は、「刑を濫用すれば根本を誤ります、よく審議してください」と言ったが、間宮は「今日になって、何を審議する必要があるのか。私は、名古屋城の留守を預っていた。佐幕派が義宜を奉じて謀叛しようと謀議した罪跡は明白だ」と主張した。その結果、慶勝は佐幕派の首領3人を斬殺、その他にも数人を誅殺して、藩論を決定し、勤王の姿勢を鮮明にした(青松葉事件)。[5]

同年5月、幕府軍が信濃に入り、尾張藩は勅命を奉じて幕府軍と戦った。執政・千賀信立を先鋒とする諸隊は信・越の間に向かい、成瀬正肥、田宮如雲らは信・甲の間に向かった。間宮は執政として美濃国太田駅に置かれた慶勝の本営に在陣して軍戦を計画し、内政・外交を総理した。[6]

戦後、慶勝は、田宮に賞典として禄150石を頒ち、永世賜給した[7]

明治2年(1869)、執政と東方総管を兼務。治所(政庁)を東春日井郡に置き、農兵を編制して、民政を総括した。[8]

同年、名古屋藩権大参事に就任[8][9]

同4年(1871)、廃藩置県により、辞職。以後、尾張徳川家の顧問(相談役)となる[8][10]

  • 普段の会議には全く出席せず、重大問題というときには人よりも早く出かけて堂々と議論し、家令や家扶を差し置いて藩主に直諫を試み、その論鋒の鋭さや条理の明晰さに皆が感心したという[10]

同35年(1902)12月、病没。享年71。[11]

  • 夫人は早くに亡くなり、を抱えていたが、相続人が無く、遺産はメチャクチャになってしまったという[10]

栄典

1913年(大正2)、正五位追贈[2]

家族

  • 姉妹:篤寿院[1]

評価

  • 中村 (1910 72)は、間宮は性格が温雅沈静で、幼い頃から文学を好み、武術を嗜んだ。詩歌と音楽に達していて、筆翰を誤らなかった、と評している。
また同書は、間宮は清高謙遜な人物で、口数は少なかったが度量は大きく、藩内で2人の君主と党流を異にする人たちとの間に立って、調整役となりながらも勤王の立場をとり続け、藩政のために尽力した功績は顕著である(だから相当の位階を贈って旧功を進賞してもらえると旧交の有志士一同はうれしい)、と評している[7]
  • 珍物子 (1909 181-182)によると、間宮は「天性頗る豪放洒脱の士」で、邸は名古屋市西南の日置にあって小城郭のような構えをなしていたが、その屋敷から毎日のように横笛の音が漏れてくるなど風流で数寄物だった。邸内ではが飼われていて陶器の五百羅漢の間をうねっており、座敷ではが数十匹も飼われていて、ケダモノ屋敷の観を呈していたという。
書画の蒐集が趣味で、晩年には長持ちに2,3本も有名な幅ばかりがあったが、一度懸けて見たら後は長持ちにしまったままにしていたという。自身でも書画の揮毫などをしていた。[12]
次第に屋敷が崩れてきて、ほとんど屋外で生活しているのと変わらないようになり、書画や古器物も雨晒し同様になっていた。死後には相続人がなく、屋敷が荒れて惨ましい風景になっていたという。[12]

付録

関連文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 中村 1910 71
  2. 2.0 2.1 2.2 名古屋図書館 1938 26
  3. 中村 1910 71-72
  4. 中村 1910 73
  5. 5.0 5.1 中村 1910 73-74
  6. 中村 1910 72,74
  7. 7.0 7.1 中村 1910 74
  8. 8.0 8.1 8.2 中村 1910 72
  9. 名古屋図書館 1938 26は、同年少参事としている。
  10. 10.0 10.1 10.2 珍物子 1909 182
  11. 中村 1910 72。原文は享年を73としているが、生没の年月により訂した。
  12. 12.0 12.1 珍物子 1909 181-182

参考文献

  • 名古屋図書館 (1938) 「間宮正万」名古屋市立名古屋図書館(編)『郷土勤皇事績展覧会図録』郷土勤皇事績展覧会図録刊行会、p.26、NDLJP 1172531/112
  • 中村 (1910) 「間宮六郎」中村修(編)『勤王家履歴』〈名古屋市史編纂資料 和装本 市11-37〉pp.71-74
  • 珍物子 (1909) 「(91) 間宮六郎翁」珍物子(編)『珍物画伝』楽山堂書房、pp.181-182、NDLJP 778379/97