豊臣秀吉

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豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし / とよとみ ひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

出自

初名は木下藤吉郎。天文6年2月6日(1537年3月17日)、尾張国鉄砲足軽の家(兵農分離の前で、半農民)に生まれたとされる。父は木下弥右衛門、母は大政所。弟に豊臣秀長、子に豊臣秀頼。のちに秀吉は、自らの出自を粉飾している。松下氏に奉公した後、織田信長に仕え始める。

出世

織田信長に仕え始めてからは、持ち前の機転や陽気な性格で気に入られ、異例の出世を遂げていった。斎藤氏との戦いでは、「墨俣の一夜城伝説」(創作説もある)などに見られるように、既に功績を挙げていた。朝倉氏との戦いでは殿(しんがり)を努めるなど、確実に信長の信頼を獲得して行った。とくに秀吉が最も得意としたのは「城攻め」であり、水攻めや兵糧攻めなど多様な作戦を用いた。また、木下姓から羽柴姓(織田家重臣の丹羽氏柴田氏からとった)に改姓した。

天下取りへ

織田信長が本能寺の変で暗殺されると、中国地方毛利氏と即時講和して山崎の戦い明智光秀を破って織田氏の実権を握った。織田信孝を擁する柴田勝家を滅ぼし(賤ヶ岳の戦い)、織田信雄を擁する徳川家康を従える(小牧・長久手の戦い)と天下統一へと各地を攻略していった。四国征伐九州征伐小田原征伐、さらに奥州仕置きによって天下を統一。羽柴姓から豊臣姓に改め、関白、続いて太閤になった秀吉は天下人となった。

晩年

秀吉は日本のみならず、海外へも目を向けた。そして朝鮮へ出兵(文禄・慶長の役、いわゆる朝鮮出兵)した。しかし、これらは失敗に終わった。また、これに前後して秀次事件(秀吉の養子・豊臣秀次とその一派の粛清)などもあり、豊臣政権は揺らいだ。このような同様の中、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉は亡くなった。享年62歳(数え歳)。