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'''織田 信長'''(おだ のぶなが)は、[[戦国時代]]の[[日本]]の武将にして、[[三ええケツ|三英傑]]の1人である。
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==概要==
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自ら[[第六天魔王]]を称し、神の存在を堂々と否定してみせた。簡単に言えば[[中二病]]患者である。残虐だけど鷹揚で寛大な面もある快活な人物、という人物評が浸透しているが、実はものっすごい猜疑心が強く、本能寺で謀反を起こされた時、最初は長男の[[織田信忠]]が叛逆したと思い込むなど、血縁さえも信じられないほど疑心暗鬼に取り付かれていた。この猜疑心の強さは部下として扱き使った[[豊臣秀吉]]や名目上は盟友、実質的には「ジャイアンに対するスネ夫」であった[[徳川家康]]、さらには織田信長を演じた[[渡哲也]]や[[高橋英樹]]、彼を主役として描いた[[司馬遼太郎]]など、多くの日本人に悪い意味で影響を与えた。今日、日本人の大半が狷介な性格なのは、信長の所為だといっても過言ではない。
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なお、Uncyclopedia英語版では[[:en:Oda Nobunaga|オダ・ノブナガ]]という人物として知られているが、本項で記述する織田信長とは経歴が全く違うため、いわゆる日本人が少なくとも名前だけは知っている「おだ のぶなが」とは別人と考えられる。なぜか日本語版にも[[オダ・ノブナガ]]の記事があるので、オダ・ノブナガを知りたい人はそちらを参照のこと。
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そのネームバリューゆえか、戦国時代(永禄~天正期)を描いた時代劇や小説では、'''主人公と何ら接点がない'''にも関らず登場し、時にはストーリーを脱線させてまで描写に重点が置かれる事がある。そのため、地方のマイナー大名・武将が好きな偏狭な戦国オタク達からは「また信長か」「いい加減ウザいんだけど」と、存在自体を忌避されている。信長本人の所為ではないのが気の毒なところだが、'''ウザいものはウザいんだから仕方がない。'''
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また、天下人のイメージが浸透しているが、確かに破竹の勢いで全国を席巻していたものの、武田を滅ぼしてようやく日本の半分くらいを切り取った直後に[[本能寺の変]]であぼんしたため、厳密に言えば「天下人になり損ねた男」である。天下人ではなく、'''「天下人になり損ねた男」'''である([[大事なことなので2回言いました]])。信長にこの不名誉な称号を与えた[[明智光秀]]は、後世、信長アンチの人々からこの一つの功績のみを以って礼賛されている。また[[歴史学者]]の[[今谷明]]からは'''「天皇に殺された男」'''の称号を贈与された。[[トンデモ]]歴史小説では、[[正親町天皇]]が直々に太刀を取り信長を成敗するような描写がなされることもある。
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[[Image:010.jpg|thumb|right|300px|左:合戦前の信長 右:信長に仕える羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])。当時の信長と秀吉の姿をカラー映像で捉えた、大変貴重な写真である(愛知県所蔵)。]]
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[[Image:おい!それぇノンな信長。.jpg|300px|thumb|これが第六天魔王らしい]]
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[[Image:織田信長.jpg|thumb|right|某戦国絵巻より。肩に乗っているのは[[豊臣秀吉]]である]]
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[[Image:ザビエル.JPG|thumb|right|200px|某戦国絵巻より。信長の真の姿。これを目にした松永久秀らは信長に臣従する]]
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==人物像==
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身長は1hydeよりも高く痩せ型で、その性格からは想像もつかないほど平凡でつまらない顔をしている。酒は飲まず、理解力・決断力・行動力に富み、稀代の戦略家であった。性格には寛大なところもあり、本人は正義を自称したが、その行為には残虐と言えるものも散見され、また短気ではないものの、部下の不手際にカッとなることも常人並みにあった。その一方で、極稀ではあるが人情に厚い面を垣間見せることもある。
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信長の頭脳なら武力で天下を統一するなど[[馬鹿]]であるとすぐに解ったはずであるが、本人は生まれ、生きて、死ぬことこそ人の美学であるという人生観を持ち、「せっかく戦乱の世に生まれたのだから、さんざん戦って白熱の戦いの中で死にたい」と考え、戦乱の世を嘆くどころか楽しむ道を選んだ。信長は自分のために世の中があると考えていたため、より良い世界に変えようなどとは微塵も思っていなかったようである。
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占いは一切信じず、縁起が悪いとして忌避される行為を進んでやってみせたりもする。だが本人にしてみれば、「自分以外の者にとって縁起が悪い」=「自分にとっては縁起が良い」という理屈であった。
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他に、霊魂の不滅や死後の世界をも信じなかったといわれるが、実は本人はこれらを強く信じていて、戦の霊を味方につける事こそが必勝の極意だと確信していた。信じていないふりをしたのも、自分以外の者にはこれらの思想をさせないため、つまり必勝の極意を独占するためである。
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彼の性格を表すものとして「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という句が有名であるが、これは鳥だけに意味を大きく取り違えられている。この句は、ウグイスの巣に卵を産みつけるホトトギスの性質を信長と重ねたもので、正しい意味は「ウグイスの綺麗な声を一度聞こうと巣を訪ねるが、そこに親鳥はおらず、どこからも鳴き声は聞こえない。腹が立ったので、巣にあったウグイスの卵を一個捨てて、自らの卵を産み落として去っていく」というものである。当然、この句を詠んだのは信長本人ではない。
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つまりは、アンサイクロペディアで意味もなく盛んに行われている'''引用'''と同じものであり、
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{{Q|鳴かぬなら殺してしまえ!|ホトトギス(信長)|ウグイス}}
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という意味である。信長の行動の大胆さ、気の変わるのが早いこと、そして残酷なやり口などを表している。
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==経歴==
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===前世===
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織田信長の前世は、身分的にはごく普通の人間だった。ある日、彼は深いジャングルの中で飢えた[[虎]]を発見し、その虎を哀れんだため、自らの身を岩山から投げ捨てて虎を救おうとした。ところが、投げ捨てた肉体は地面に叩き付けられても傷一つ付かず、その首に虎が必死に牙を食い込ませても、噛み切るどころかマッサージになって凝りをほぐしてしまう有様だった。
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かくして、虎を助けるつもりで虎の生き残る力を使い果たさせてしまい、しかも自分は幽体離脱して戻れなくなってしまった間抜けな前世は、次の一生では神にも勝る魔王になろうと決意するのだった。<!--釈迦の前世-->
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===信長誕生から尾張統一まで===
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[[Image:森蘭丸.JPG|thumb|恋人の[[森蘭丸]]。ウホッ!いい男。]]
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織田信長は天文3年に尾張国で生まれる。記録によると、母は堕天使[[ルシファー]]に犯される夢を見た後、妊娠したとされる。母体に[[通常の3倍]]程の苦痛を残し、生まれるとすぐに立ち上がって、右手で自分の{{検閲により削除}}を、左手で天を指差し、首を上げ、空中を睨みつけながら、[[キリスト]]に歯向かうように13歩進んでみせた後、幸若舞「敦盛」の一節を口にしたという。「'''人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか'''」<!--釈迦の誕生-->
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これには誰もが絶句した。ある者は彼を[[釈迦|仏陀]]の生まれ変わりだと言い、またある者は彼を[[悪魔]]の子だと言った。キリストの生まれ変わりだとする珍説もあったが、[[ムハンマド]]の生まれ変わりだという声はどこからも上がらなかった。性質が一番似ているにもかかわらずである。
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 ある高僧は、赤子の信長を一目見ると、この子は生きながら仏敵、大魔王になるであろうと絶叫した。
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ともあれ、奇跡のような誕生をした信長の将来は、良くも悪くも注目を集めることとなる。
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天文20年、信長は父・信秀を亡くすが、その[[葬式]]で信長は父の祭壇に大量の分泌液をぶっ掛けた(近年は[[PTA]]的思想により「線香の灰を棺桶に叩きつけた」とされている事が多い)。この一件で信長は「戦国史上最強の[[馬鹿]]」の地位を不動のものとし、尾張国内で一躍有名人となる。この行為は馬鹿を装うという緻密な計算によるものであったが、信長の教育係であった[[平手政秀]]は[[冗談]]が通じなかったため、信長の数々の奇行や信秀を侮辱する行為に責任を感じ、天文22年に自刃してしまう。信長は彼の自害を悲しみ、盛大に弔ったと伝えるが、近年では計画が狂ってしまった事にいきなり絶望して、涙が出たのを弔いでごまかしたという邪推もなされる。
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信秀死去により、信長はその家督を継ぎ、尾張国の覇権をめぐって信秀と対立していた[[織田信友]]は信長と対立する。信友は信長の弟・信行に家督を継がせるべく、信長を謀殺する計略をたてる。信友に実権を握られていた[[斯波義統]]はその計画を信長に密告するが、これを知って激怒した信友は、義統の子・義銀とその兵が川狩りに出ている隙に、義統を殺害する。父の死を知って助けを求めに来た義銀からこの話を聞いた信長は、この事件を大義名分に信友を罪人として殺害した。
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お気づきであろうが、全ては信長の計画通りである。信長は、義統の密告をそれとなく信友に気付かせ、さらに義統には、義銀らを川狩りに出させるよう仕向けていた。これにより、信長が信条とする公の正義を守りながら信友の殺害に成功し、さらに義銀を都合の良い手駒として取り入れたのである。
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[[斎藤道三]]の敗北・死去は信長の失敗とも言われるが、実際には無能を装うためにわざと手出しを遅れさせたのか、応援を寄越す前に敦盛を舞っていて遅れてしまったかのどちらかである。ともあれ、この道三の死は「稲生の戦い」の原因となった。信長の弟にして敵となった信行は、戦力差で優位に立っていたが、それも信長の悪運と[[ダース・ベイダー]]のような力には敵わず、結果は信長の勝利に終わる。
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辛くも命を赦された信行は、その後も謀反を起こそうと目論むが、この時すでに[[柴田勝家]]にも見切りをつけられており、あっさり計画を信長に密告される。馬鹿な信行なら本気でやりかねないと考えた信長は、仮病を使って信行を誘い出し、ノコノコやってきたところでブルセラショップ通いの証拠である使用済み下着やそれを頭に被った信行の目撃証言、布団の下のエロ本の数々を女中たちの前にさらし、精神的に追い詰めて死なせる。一部始終を目にした柴田勝家は、自分がかつて推していた信行が救いようのない馬鹿者である事に気付き、逆に馬鹿だと思っていた信長は、むしろ天才的な戦略家であり、敵を油断させるために馬鹿のふりをしていたのだと悟る。彼はその後一生、信長に仕えることを誓うのだった。
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義銀と吉良氏がその後、信長討伐を謀ることも、信長自身は見通していたといわれる。だが、勝負を急がない我慢強さとここぞという時の勝負の早さにより、信長はとうとう尾張を統一する。信長は満足そうに振舞っていたが、思っていたほど苦労しなかったことに内心拍子抜けしていたらしい。
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※出てくる名前が「信○」ばかりで混乱するのは仕様である。
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===桶狭間の戦い===
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[[Image:B0045827 8122953.jpg|thumb|250px|信長と義元が桶狭間で対決する直前の会見。義元は余裕綽々のようだ。]]
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永禄3年、[[今川義元]]は尾張へ侵攻した。信長自身の強さはさておき、軍勢は義元軍よりはるかに少ないため、領土拡大のためには信長が一番楽な相手だと思っていたようである。他に、義元は生粋の[[中二病]]患者で、同じ中二病患者であり第六天魔王を嘯く信長が気に入らなかったとも言われる。
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義元の軍勢は圧倒的な戦力を持っていた。信長は真っ向からの勝負は難しいと判断して、とりあえず死ぬ前にと敦盛を舞った後、戦勝祈願をして出陣した。間もなく豪雨にみまわれ、視界の悪い中で敵軍を発見し、奇襲する。最期は派手にと、そのまま金魚の餌にできるほど敵をズタズタにするつもりだったが、遭遇したのが幸運にも義元のいた本隊であり、それを討ち取って勝利を収めた。
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この戦いの後、[[徳川家康]]と同盟を結んだ信長は、美濃攻略を順調に進めていく。義龍を呪い殺して斎藤氏を混乱に陥れたり、[[浅井長政]]を抱き込んだりといった外堀作戦の末、永禄10年ごろには美濃を獲得した。
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===信長包囲網前の経緯===
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[[Image:Img nob03.jpg|thumb|貫禄のある顔つき]]
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信長は侵略が存外に楽しいことに気付き、「天下布武」というスローガンを掲げ、天下を統一する事を目標とした。
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室町幕府足利氏は三好氏に良い様に操られており、14代[[足利義栄]]は実はマネキンだったのではないかと言われるほど、実権は[[松永久秀]]と[[三好三人衆]]に握られていた。
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辛くも京都を逃れた[[足利義昭]]は、[[朝倉義景]]ら頼りない連中に頭を下げて回るも、いずれも将軍家復興の助力はしなかった。義景にいたっては、「果報は寝て待て」とか「Let it be...」とか「Que sera sera...」とか言うばかりであった。
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そこで義昭は織田信長に三好氏の討伐を求める。信長はこれを承諾し、武田信玄ら周辺諸国と同盟を結ぶなどしてまず足場を固めた。そして義昭を15代将軍へ推し、京都へ行く。
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織田軍の力で程なく観音寺城を落とし、この力に恐れをなした松永久秀らは信長に屈する。やがて三好の軍勢も逃亡し、池田勝正も降伏。あっという間に京都をものにした織田軍により、第15代将軍足利義昭を立て、織田政権が始まる。信長は勧められた副将軍の地位を断り、さっさと義昭を奈落の底へ突き落とす計画を進行させるのだった。
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===第一次信長包囲網===
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その後、信長は「殿中御掟」などを発令して足利義昭の権力を制限させようとする。これは義昭にとって、信長に対する不満を増長させるものであった。
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信長は朝倉義景に、京都へ来いという指示を送るが、義景は「そのままでいい(Let it be...)」と拒否。再度同じ指示を送るも、今度は「なるようになる(Que sera sera...)」と拒否。腹を立てた信長は徳川家康と組んで義景討伐に乗り出す。ほとんど何もしない義景を相手に、織田・徳川軍は順調に城を落としていくが、同盟を結んでいた浅井長政に裏切られて背後を急襲される。織田軍はやむなく京都へ撤退し、態勢を立て直す。
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織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の戦いが姉川を跨いで展開される。浅井長政の軍は織田軍に猛攻を仕掛け、信長は敗戦間近に追いやられていたが、このとき信長は長政を降伏させて再び手元に置く方法を必死に考えていたようである。
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一方、朝倉軍は勢力で徳川軍を遥かに上回っていたが、義景は「このままでいい」「なるようになる」と全くやる気がなく、猛攻を受けてあっさりと敗退する。その後、浅井軍には信長の援軍が隙を突き、とうとう長政も敗退するのだった。この戦いの後から毛利、武田、上杉といった多くの戦国大名らが信長に反発を示す。俗に言う信長包囲網である。
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元亀3年、信長は北近江へ進軍。浅井軍と壮大な睨めっこを繰り広げる。織田側は5万にも及ぶ軍勢だったといわれ、浅井軍は応援に駆けつけた朝倉義景の軍勢をあわせても劣勢だった。
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その頃、足利義昭の要請で[[武田信玄]]が動く。[[三方ヶ原の戦い|三方ヶ原]]では織田の勢力を加えた徳川軍が武田軍の背後を狙おうとするも、返り討ちに遭って敗退する。これは城に籠っていた徳川軍を誘き出して討つという、武田軍の作戦だった。
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このまま浅井・朝倉軍によって織田軍本陣が北近江に留まり続ければ、武田軍の勝利はもはや確実であったが、ここでなんと義景は、疲れた、雪が降って嫌だと言って全軍撤退してしまう。長政は呆気に取られ、織田軍はこの間に大手を振って美濃へ帰ってしまうのだった。武田信玄はこれに怒りを爆発させ、義景に再度 兵を出すよう呼びかけるが、義景はやはり「そのままでいい」と考えたらしく、沈黙を貫き通す。信玄は義景の出兵をひたすら待つが、いつまで待っても義景は動きを見せなかった。
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その後、とうとう痺れを切らした武田信玄はやむなく戦いを再開するが、義景への怒りのせいで持病をひどく悪化させてしまい、程なくして病死。彼の軍勢は撤退し、信長包囲網は事実上解かれた。
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同年7月、城に籠っていた足利義昭は信長によって京都から追放される。多くはこれを[[室町時代]]の終わりとしている。
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天正元年、織田軍は再び北近江へ進攻する。長政はまた朝倉義景に応援を要請するが、これは長政にとって最後のあがきでしかなく、義景に期待など微塵も持っていなかった。案の定、義景は少し戦いに参加したかと思うとすぐに「そのままでいい」「なるようになる」と言って撤退を始める。信長はそんな義景を追い討ちして死なせた後、長政を包囲して降伏を迫る。
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長政は最後まで降伏を断り、妻であるお市(信長の妹)を帰還させる。その後、長政の父・久政が自害し、それを追って長政も自害した。
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信長は彼の死を惜しんだと見え、彼とその父と、朝倉義景の頭骨に金箔を塗り、正月の宴席で披露した。ある小説家はこれを「頭骨で酒を飲ませた」と勘違いしたようだが、仮に信長が彼らの死を面白がっていたのだとしても、そんな下らない真似はしない。信長は敦盛の一節を気に入っていたように、人の生と死について考えることが多く、これも「いずれ自分が死ぬ時はこんなふうに死にたいものだ」という思いや、自分より先に旅立った者の一生をねぎらう意がある。ちなみに、珍説として「頭骨'''に'''酒を飲ませた」というものもある。
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===第二次信長包囲網===
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天正4年、信長は琵琶湖岸に安土城を築かせる。何年もかけてようやく城が完成すると、信長はそこへ移り住んだ。そこは現代人も舌を巻くほどの豪勢な城であり、雅やか煌びやかといった形容をいくら多用しても足りないほど贅沢で美しい住まいだった。
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ここで天下を統一する計画を練ったが、信長にしてみればこれはただの目標に過ぎず、生きているうちに実現できればよし、できなければそれもまたよし、という程度のものである。世界は自分のためにあると確信していたため、世界のために何かを成そうなどとは思っておらず、この目標は言ってみれば「THE 天下統一」というゲームをやっているようなものだった。
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しかしながら、他の多くの戦国大名たちは思いっきりマジで戦っていたため、信長もマジだと思われていたようである。信長の壮大な天下統一ごっこに、再び反発が強まってくる。信長はこれを迎え撃つべく軍勢を送るが、敗北。
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「天王寺の戦い」では信長自らが参戦し、そのため劣勢を跳ね除けて敵軍を撃破してみせるが、その後は苦戦を強いられる。殊に[[上杉謙信]]は強敵であり、信長はゲームオーバーを覚悟していた。信長を裏切って謙信側に付いた松永久秀を討った後は、せめて謙信と刺し違えるつもりで戦に臨んだが、またもや悪運が信長に味方する。上杉謙信は、まさに信長を討ち取りに出発する直前に倒れ、急死したのである。継嗣問題で上杉側は混乱に陥り、その隙に信長は上杉領を攻略していく。
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先の武田信玄といい、なんだか都合が良すぎるので上杉の死は信長による毒殺ではないかとも言われるが、信長はそんな無粋な戦はしない。
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===信長の思想===
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 信長は安土城が完成した時、家臣達を呼び寄せてかく語った。
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余が天下を統一し、余自身の帝国を打ち立てた際には――――
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「心の貧しい衆生は、賞される。我が帝国はその人たちのものである。」
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「悲嘆する衆生は、賞される。彼らは勝鬨を上げる。 」
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「忠実な衆生は、賞される。彼らは我が地を受け継ぐ。 」
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「血に飢え渇く衆生は、賞される。彼らは血に満たされる。」
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「怨み深い衆生は、賞される。彼らは栄光を受ける。」
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「心がどす黒く濁った衆生は、賞される。彼らは魔王を見て、魔王と共にいる。」 
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「混沌と紛争を実現する衆生は、賞される。彼らは魔王の子と呼ばれる。 」
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「余のために迫害される衆生は、賞される、帝国は彼らのものである。」
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「余の為に罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、諸君らは賞される。 」
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「諸君、慶び給え。大いに慶び給え。我が帝国には大きな報いがある。お前たちより前の家臣たちも、同じように迫害されたのである。」
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家臣たちにとって、正直その演説は意味不明で難解なものであり到底理解出来なかった。
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===本能寺の変===
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天正10年、信長は本能寺に待機し、[[羽柴秀吉]]らの軍が集まるのを待っていた。すでに日本史によく出る名前の武将はほぼ全て倒しており、この時点での敵は信長にとっては弱い相手ばかりだった。
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そんな中、信長は徳川家康を暗殺する計画を立て、その実行を[[明智光秀]]に委ねるが、光秀が応じなかったため、信長は「出された魚が腐っていた」というこじつけの理由で光秀の家康接待役の任を解く。(この時、信長は光秀をキンカン禿と罵り、森蘭丸に鉄扇で光秀を殴らせた。)そして秀吉の軍に加勢する準備をしろと言いつけ、軍勢を集めさせた。
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その後、信長は会食で13人の家臣を集め、開口一番、「'''余が裂くこの[[刺身]]はお前たちのために裂かれた余の体、この[[醤油]]はお前たちの為に流された余の血である'''」といって刺身を裂き、醤油に浸して家臣たちに分け与えた。それから「'''この中に余を裏切る者がいる'''」と話す。家臣たちは大騒ぎになり、それぞれ「自分は裏切りなどしない」、または「お前が裏切るのではないか」、と口々に言い出した。この時、[[徳川家康]]は、他のものが貴方を裏切ろうとも、私は絶対に貴方を裏切りませんといった。信長は、「'''おまえは余が死んで鶏が三度鳴くときに信長など知らないと三回追っ手に言い、三河に逃げ出すだろう'''」といった。それからまた、信長は「'''これから余が刺身を浸して与える者が謀反を起こす者である'''」と言い、刺身を光秀の口に運んだ。その刺身が非常に不味かったと見え、光秀が怒りを覚えると、彼に[[悪魔]]が取り付いた。信長は光秀に「しようとしていることを今すぐ致せ」と言う。光秀はその通りに、謀反を起こす決意をするのだった。これが「[[本能寺の変]]」である。<!--最後の晩餐、ヨハネの福音書より-->
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信長は自ら謀反を促している。これは、天下統一の手前まで来たのがおよそ48歳と、敦盛の「人間五十年」に従うと2年も余っているため、そのまま天下を統一してしまったら残りの2年がつまらない余生になってしまうという理由であった。信長は家臣の中で特に(面白みが無く)気に入らない光秀を敵に回し、一生で最も苦しい戦を繰り広げて死のうと考えたのである。
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光秀はこの後、一度は秀吉の援軍として兵を率いて出陣したが、途中でそれを止め、有名な「'''敵は本能寺にあり'''」という言葉を発し、本能寺へ進路を変える。多くの臣はこの発言を「徳川家康を討つ」と解釈し、信長の首を狙うと知る者は少なかった。
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光秀の軍勢は本能寺を完全包囲した。騒がしさに気付いて目を覚ました信長はまだ寝ぼけており、喧嘩があったのかと思ったが、やがて城下にキキョウの紋の旗印が確認されると、信長は「是非に及ばず」と呟き、いよいよだと弓を持つ。これで敵兵の喉を次々と穿っていくが、程なくして弦が切れてしまう。次に槍を構え、敵兵の鎧を貫いてみせるが、3人目を貫いた時に槍が抜けなくなってしまい、攻撃を受けて負傷したところで信長は退却、城の者に逃げるよう告げて、自分は城の奥へ籠る。そして火が放たれると、信長は光秀に首を取らせないよう、ダース・ベイダーと対峙したベン・ケノービのようにその身を無に還してこの世を去った。享年48。
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また、信長を討ち取ったのが[[出木杉英才]]であるという説もある。
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===死後===
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本能寺の変の後に続く時代には、豊臣秀吉が光秀を負かしたり、徳川家康と戦ったりと様々な事件が発生するのだが、ここでは省略する。
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光秀は本能寺の変の後、信長の死体を必死に探し回ったが、最後まで見つかる事はなかった。[[無]]と化したのだからそれも道理である。死体が見つからなかったので棺桶が使われることはなく、そのためこの出来事は日本史上で[[風が吹けば桶屋が儲かる|桶屋が儲からなかった]]結末の好例としてしばしば挙げられる。生前の信長は多くの死者を出して桶屋の大繁盛を支えたため、彼が死んだことは桶屋にとって大損失であった。
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また[[1994年]]に突如として復活し「新党のぶなが」を結成。総選挙で過半数を獲得し412年ぶりに信長が政権の座に着いた。
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==信長に対する様々な人物のコメント==
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信長は良くも悪くも顔が広かったため、ここではほんの一部を紹介する。<br />
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'''※信長からのお願い''' : 面白いコメントだけ掲載してほしい。史実なんか気にするな!
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{{Q|鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス|[[徳川家康]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|鳴かぬなら おべっかを使え ホトトギス|[[豊臣秀吉]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|鳴かぬなら いいから殺せ ホトトギス|[[明智光秀]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|鳴かぬなら ケ・セラ・セラ ホトトギス|[[朝倉義景]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|鳴かぬのは 義景のせいだ ホトトギス|[[武田信玄]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|酒が飲めない輩には塩を送ってやる……毘沙門天の怒りである|[[上杉謙信]]}}
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{{Q|鳴かぬなら 独眼竜だよ ホトトギス|[[伊達政宗]]|ホトトギス(信長)}}
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{{Q|鳴かぬなら 泣きたいだけ 泣くがよい|[[卓球少女]]|ホトトギス(信長)}}
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{{語録 (足利義昭)|私にとって、始めは信長は命のように大切な人材だった。その後は、[[ゴキブリ]]のように気に入らない人物になったが、終いには悪魔よりも恐ろしい人物になった。}}
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{{Q|余の辞書に織田信長という字はない。これほど完全な強者であるというのに。|[[ナポレオン・ボナパルト]]}}
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{{Q|我々の手品では、彼を引き出すことは出来ない。|[[ナポレオンズ]]}}
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{{Q|地雷を踏んだらサヨウナラ。お寺を焼いたらオシマイダ。|[[一ノ瀬泰造]]}}
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{{Q|[[室町幕府|足利王朝]]を滅ぼし、[[京都市|京都]]の僧侶たちを焼き殺したのに、[[天皇]]王朝を滅ぼさないとは何事だ!既存の王朝を皆殺ししなかった信長が革命児とはチャンチャラおかしい!!|[[ウラジーミル・レーニン]]}}
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2010年3月25日 (木) 14:23時点における版

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代日本の武将にして、三英傑の1人である。

概要

自ら第六天魔王を称し、神の存在を堂々と否定してみせた。簡単に言えば中二病患者である。残虐だけど鷹揚で寛大な面もある快活な人物、という人物評が浸透しているが、実はものっすごい猜疑心が強く、本能寺で謀反を起こされた時、最初は長男の織田信忠が叛逆したと思い込むなど、血縁さえも信じられないほど疑心暗鬼に取り付かれていた。この猜疑心の強さは部下として扱き使った豊臣秀吉や名目上は盟友、実質的には「ジャイアンに対するスネ夫」であった徳川家康、さらには織田信長を演じた渡哲也高橋英樹、彼を主役として描いた司馬遼太郎など、多くの日本人に悪い意味で影響を与えた。今日、日本人の大半が狷介な性格なのは、信長の所為だといっても過言ではない。

なお、Uncyclopedia英語版ではオダ・ノブナガという人物として知られているが、本項で記述する織田信長とは経歴が全く違うため、いわゆる日本人が少なくとも名前だけは知っている「おだ のぶなが」とは別人と考えられる。なぜか日本語版にもオダ・ノブナガの記事があるので、オダ・ノブナガを知りたい人はそちらを参照のこと。

そのネームバリューゆえか、戦国時代(永禄~天正期)を描いた時代劇や小説では、主人公と何ら接点がないにも関らず登場し、時にはストーリーを脱線させてまで描写に重点が置かれる事がある。そのため、地方のマイナー大名・武将が好きな偏狭な戦国オタク達からは「また信長か」「いい加減ウザいんだけど」と、存在自体を忌避されている。信長本人の所為ではないのが気の毒なところだが、ウザいものはウザいんだから仕方がない。

また、天下人のイメージが浸透しているが、確かに破竹の勢いで全国を席巻していたものの、武田を滅ぼしてようやく日本の半分くらいを切り取った直後に本能寺の変であぼんしたため、厳密に言えば「天下人になり損ねた男」である。天下人ではなく、「天下人になり損ねた男」である(大事なことなので2回言いました)。信長にこの不名誉な称号を与えた明智光秀は、後世、信長アンチの人々からこの一つの功績のみを以って礼賛されている。また歴史学者今谷明からは「天皇に殺された男」の称号を贈与された。トンデモ歴史小説では、正親町天皇が直々に太刀を取り信長を成敗するような描写がなされることもある。

左:合戦前の信長 右:信長に仕える羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)。当時の信長と秀吉の姿をカラー映像で捉えた、大変貴重な写真である(愛知県所蔵)。
ファイル:織田信長.jpg
某戦国絵巻より。肩に乗っているのは豊臣秀吉である
ファイル:ザビエル.JPG
某戦国絵巻より。信長の真の姿。これを目にした松永久秀らは信長に臣従する

人物像

身長は1hydeよりも高く痩せ型で、その性格からは想像もつかないほど平凡でつまらない顔をしている。酒は飲まず、理解力・決断力・行動力に富み、稀代の戦略家であった。性格には寛大なところもあり、本人は正義を自称したが、その行為には残虐と言えるものも散見され、また短気ではないものの、部下の不手際にカッとなることも常人並みにあった。その一方で、極稀ではあるが人情に厚い面を垣間見せることもある。

信長の頭脳なら武力で天下を統一するなど馬鹿であるとすぐに解ったはずであるが、本人は生まれ、生きて、死ぬことこそ人の美学であるという人生観を持ち、「せっかく戦乱の世に生まれたのだから、さんざん戦って白熱の戦いの中で死にたい」と考え、戦乱の世を嘆くどころか楽しむ道を選んだ。信長は自分のために世の中があると考えていたため、より良い世界に変えようなどとは微塵も思っていなかったようである。

占いは一切信じず、縁起が悪いとして忌避される行為を進んでやってみせたりもする。だが本人にしてみれば、「自分以外の者にとって縁起が悪い」=「自分にとっては縁起が良い」という理屈であった。

他に、霊魂の不滅や死後の世界をも信じなかったといわれるが、実は本人はこれらを強く信じていて、戦の霊を味方につける事こそが必勝の極意だと確信していた。信じていないふりをしたのも、自分以外の者にはこれらの思想をさせないため、つまり必勝の極意を独占するためである。

彼の性格を表すものとして「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という句が有名であるが、これは鳥だけに意味を大きく取り違えられている。この句は、ウグイスの巣に卵を産みつけるホトトギスの性質を信長と重ねたもので、正しい意味は「ウグイスの綺麗な声を一度聞こうと巣を訪ねるが、そこに親鳥はおらず、どこからも鳴き声は聞こえない。腹が立ったので、巣にあったウグイスの卵を一個捨てて、自らの卵を産み落として去っていく」というものである。当然、この句を詠んだのは信長本人ではない。

つまりは、アンサイクロペディアで意味もなく盛んに行われている引用と同じものであり、

「鳴かぬなら殺してしまえ!」
~ ウグイス について、ホトトギス(信長)

という意味である。信長の行動の大胆さ、気の変わるのが早いこと、そして残酷なやり口などを表している。

経歴

前世

織田信長の前世は、身分的にはごく普通の人間だった。ある日、彼は深いジャングルの中で飢えたを発見し、その虎を哀れんだため、自らの身を岩山から投げ捨てて虎を救おうとした。ところが、投げ捨てた肉体は地面に叩き付けられても傷一つ付かず、その首に虎が必死に牙を食い込ませても、噛み切るどころかマッサージになって凝りをほぐしてしまう有様だった。

かくして、虎を助けるつもりで虎の生き残る力を使い果たさせてしまい、しかも自分は幽体離脱して戻れなくなってしまった間抜けな前世は、次の一生では神にも勝る魔王になろうと決意するのだった。

信長誕生から尾張統一まで

ファイル:森蘭丸.JPG
恋人の森蘭丸。ウホッ!いい男。

織田信長は天文3年に尾張国で生まれる。記録によると、母は堕天使ルシファーに犯される夢を見た後、妊娠したとされる。母体に通常の3倍程の苦痛を残し、生まれるとすぐに立ち上がって、右手で自分の検閲により削除を、左手で天を指差し、首を上げ、空中を睨みつけながら、キリストに歯向かうように13歩進んでみせた後、幸若舞「敦盛」の一節を口にしたという。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか

これには誰もが絶句した。ある者は彼を仏陀の生まれ変わりだと言い、またある者は彼を悪魔の子だと言った。キリストの生まれ変わりだとする珍説もあったが、ムハンマドの生まれ変わりだという声はどこからも上がらなかった。性質が一番似ているにもかかわらずである。  ある高僧は、赤子の信長を一目見ると、この子は生きながら仏敵、大魔王になるであろうと絶叫した。

ともあれ、奇跡のような誕生をした信長の将来は、良くも悪くも注目を集めることとなる。

天文20年、信長は父・信秀を亡くすが、その葬式で信長は父の祭壇に大量の分泌液をぶっ掛けた(近年はPTA的思想により「線香の灰を棺桶に叩きつけた」とされている事が多い)。この一件で信長は「戦国史上最強の馬鹿」の地位を不動のものとし、尾張国内で一躍有名人となる。この行為は馬鹿を装うという緻密な計算によるものであったが、信長の教育係であった平手政秀冗談が通じなかったため、信長の数々の奇行や信秀を侮辱する行為に責任を感じ、天文22年に自刃してしまう。信長は彼の自害を悲しみ、盛大に弔ったと伝えるが、近年では計画が狂ってしまった事にいきなり絶望して、涙が出たのを弔いでごまかしたという邪推もなされる。

信秀死去により、信長はその家督を継ぎ、尾張国の覇権をめぐって信秀と対立していた織田信友は信長と対立する。信友は信長の弟・信行に家督を継がせるべく、信長を謀殺する計略をたてる。信友に実権を握られていた斯波義統はその計画を信長に密告するが、これを知って激怒した信友は、義統の子・義銀とその兵が川狩りに出ている隙に、義統を殺害する。父の死を知って助けを求めに来た義銀からこの話を聞いた信長は、この事件を大義名分に信友を罪人として殺害した。

お気づきであろうが、全ては信長の計画通りである。信長は、義統の密告をそれとなく信友に気付かせ、さらに義統には、義銀らを川狩りに出させるよう仕向けていた。これにより、信長が信条とする公の正義を守りながら信友の殺害に成功し、さらに義銀を都合の良い手駒として取り入れたのである。

斎藤道三の敗北・死去は信長の失敗とも言われるが、実際には無能を装うためにわざと手出しを遅れさせたのか、応援を寄越す前に敦盛を舞っていて遅れてしまったかのどちらかである。ともあれ、この道三の死は「稲生の戦い」の原因となった。信長の弟にして敵となった信行は、戦力差で優位に立っていたが、それも信長の悪運とダース・ベイダーのような力には敵わず、結果は信長の勝利に終わる。

辛くも命を赦された信行は、その後も謀反を起こそうと目論むが、この時すでに柴田勝家にも見切りをつけられており、あっさり計画を信長に密告される。馬鹿な信行なら本気でやりかねないと考えた信長は、仮病を使って信行を誘い出し、ノコノコやってきたところでブルセラショップ通いの証拠である使用済み下着やそれを頭に被った信行の目撃証言、布団の下のエロ本の数々を女中たちの前にさらし、精神的に追い詰めて死なせる。一部始終を目にした柴田勝家は、自分がかつて推していた信行が救いようのない馬鹿者である事に気付き、逆に馬鹿だと思っていた信長は、むしろ天才的な戦略家であり、敵を油断させるために馬鹿のふりをしていたのだと悟る。彼はその後一生、信長に仕えることを誓うのだった。

義銀と吉良氏がその後、信長討伐を謀ることも、信長自身は見通していたといわれる。だが、勝負を急がない我慢強さとここぞという時の勝負の早さにより、信長はとうとう尾張を統一する。信長は満足そうに振舞っていたが、思っていたほど苦労しなかったことに内心拍子抜けしていたらしい。

※出てくる名前が「信○」ばかりで混乱するのは仕様である。

桶狭間の戦い

ファイル:B0045827 8122953.jpg
信長と義元が桶狭間で対決する直前の会見。義元は余裕綽々のようだ。

永禄3年、今川義元は尾張へ侵攻した。信長自身の強さはさておき、軍勢は義元軍よりはるかに少ないため、領土拡大のためには信長が一番楽な相手だと思っていたようである。他に、義元は生粋の中二病患者で、同じ中二病患者であり第六天魔王を嘯く信長が気に入らなかったとも言われる。

義元の軍勢は圧倒的な戦力を持っていた。信長は真っ向からの勝負は難しいと判断して、とりあえず死ぬ前にと敦盛を舞った後、戦勝祈願をして出陣した。間もなく豪雨にみまわれ、視界の悪い中で敵軍を発見し、奇襲する。最期は派手にと、そのまま金魚の餌にできるほど敵をズタズタにするつもりだったが、遭遇したのが幸運にも義元のいた本隊であり、それを討ち取って勝利を収めた。

この戦いの後、徳川家康と同盟を結んだ信長は、美濃攻略を順調に進めていく。義龍を呪い殺して斎藤氏を混乱に陥れたり、浅井長政を抱き込んだりといった外堀作戦の末、永禄10年ごろには美濃を獲得した。

信長包囲網前の経緯

ファイル:Img nob03.jpg
貫禄のある顔つき

信長は侵略が存外に楽しいことに気付き、「天下布武」というスローガンを掲げ、天下を統一する事を目標とした。

室町幕府足利氏は三好氏に良い様に操られており、14代足利義栄は実はマネキンだったのではないかと言われるほど、実権は松永久秀三好三人衆に握られていた。

辛くも京都を逃れた足利義昭は、朝倉義景ら頼りない連中に頭を下げて回るも、いずれも将軍家復興の助力はしなかった。義景にいたっては、「果報は寝て待て」とか「Let it be...」とか「Que sera sera...」とか言うばかりであった。

そこで義昭は織田信長に三好氏の討伐を求める。信長はこれを承諾し、武田信玄ら周辺諸国と同盟を結ぶなどしてまず足場を固めた。そして義昭を15代将軍へ推し、京都へ行く。

織田軍の力で程なく観音寺城を落とし、この力に恐れをなした松永久秀らは信長に屈する。やがて三好の軍勢も逃亡し、池田勝正も降伏。あっという間に京都をものにした織田軍により、第15代将軍足利義昭を立て、織田政権が始まる。信長は勧められた副将軍の地位を断り、さっさと義昭を奈落の底へ突き落とす計画を進行させるのだった。

第一次信長包囲網

その後、信長は「殿中御掟」などを発令して足利義昭の権力を制限させようとする。これは義昭にとって、信長に対する不満を増長させるものであった。

信長は朝倉義景に、京都へ来いという指示を送るが、義景は「そのままでいい(Let it be...)」と拒否。再度同じ指示を送るも、今度は「なるようになる(Que sera sera...)」と拒否。腹を立てた信長は徳川家康と組んで義景討伐に乗り出す。ほとんど何もしない義景を相手に、織田・徳川軍は順調に城を落としていくが、同盟を結んでいた浅井長政に裏切られて背後を急襲される。織田軍はやむなく京都へ撤退し、態勢を立て直す。

織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の戦いが姉川を跨いで展開される。浅井長政の軍は織田軍に猛攻を仕掛け、信長は敗戦間近に追いやられていたが、このとき信長は長政を降伏させて再び手元に置く方法を必死に考えていたようである。

一方、朝倉軍は勢力で徳川軍を遥かに上回っていたが、義景は「このままでいい」「なるようになる」と全くやる気がなく、猛攻を受けてあっさりと敗退する。その後、浅井軍には信長の援軍が隙を突き、とうとう長政も敗退するのだった。この戦いの後から毛利、武田、上杉といった多くの戦国大名らが信長に反発を示す。俗に言う信長包囲網である。

元亀3年、信長は北近江へ進軍。浅井軍と壮大な睨めっこを繰り広げる。織田側は5万にも及ぶ軍勢だったといわれ、浅井軍は応援に駆けつけた朝倉義景の軍勢をあわせても劣勢だった。

その頃、足利義昭の要請で武田信玄が動く。三方ヶ原では織田の勢力を加えた徳川軍が武田軍の背後を狙おうとするも、返り討ちに遭って敗退する。これは城に籠っていた徳川軍を誘き出して討つという、武田軍の作戦だった。

このまま浅井・朝倉軍によって織田軍本陣が北近江に留まり続ければ、武田軍の勝利はもはや確実であったが、ここでなんと義景は、疲れた、雪が降って嫌だと言って全軍撤退してしまう。長政は呆気に取られ、織田軍はこの間に大手を振って美濃へ帰ってしまうのだった。武田信玄はこれに怒りを爆発させ、義景に再度 兵を出すよう呼びかけるが、義景はやはり「そのままでいい」と考えたらしく、沈黙を貫き通す。信玄は義景の出兵をひたすら待つが、いつまで待っても義景は動きを見せなかった。

その後、とうとう痺れを切らした武田信玄はやむなく戦いを再開するが、義景への怒りのせいで持病をひどく悪化させてしまい、程なくして病死。彼の軍勢は撤退し、信長包囲網は事実上解かれた。

同年7月、城に籠っていた足利義昭は信長によって京都から追放される。多くはこれを室町時代の終わりとしている。

天正元年、織田軍は再び北近江へ進攻する。長政はまた朝倉義景に応援を要請するが、これは長政にとって最後のあがきでしかなく、義景に期待など微塵も持っていなかった。案の定、義景は少し戦いに参加したかと思うとすぐに「そのままでいい」「なるようになる」と言って撤退を始める。信長はそんな義景を追い討ちして死なせた後、長政を包囲して降伏を迫る。

長政は最後まで降伏を断り、妻であるお市(信長の妹)を帰還させる。その後、長政の父・久政が自害し、それを追って長政も自害した。

信長は彼の死を惜しんだと見え、彼とその父と、朝倉義景の頭骨に金箔を塗り、正月の宴席で披露した。ある小説家はこれを「頭骨で酒を飲ませた」と勘違いしたようだが、仮に信長が彼らの死を面白がっていたのだとしても、そんな下らない真似はしない。信長は敦盛の一節を気に入っていたように、人の生と死について考えることが多く、これも「いずれ自分が死ぬ時はこんなふうに死にたいものだ」という思いや、自分より先に旅立った者の一生をねぎらう意がある。ちなみに、珍説として「頭骨酒を飲ませた」というものもある。

第二次信長包囲網

天正4年、信長は琵琶湖岸に安土城を築かせる。何年もかけてようやく城が完成すると、信長はそこへ移り住んだ。そこは現代人も舌を巻くほどの豪勢な城であり、雅やか煌びやかといった形容をいくら多用しても足りないほど贅沢で美しい住まいだった。

ここで天下を統一する計画を練ったが、信長にしてみればこれはただの目標に過ぎず、生きているうちに実現できればよし、できなければそれもまたよし、という程度のものである。世界は自分のためにあると確信していたため、世界のために何かを成そうなどとは思っておらず、この目標は言ってみれば「THE 天下統一」というゲームをやっているようなものだった。

しかしながら、他の多くの戦国大名たちは思いっきりマジで戦っていたため、信長もマジだと思われていたようである。信長の壮大な天下統一ごっこに、再び反発が強まってくる。信長はこれを迎え撃つべく軍勢を送るが、敗北。

「天王寺の戦い」では信長自らが参戦し、そのため劣勢を跳ね除けて敵軍を撃破してみせるが、その後は苦戦を強いられる。殊に上杉謙信は強敵であり、信長はゲームオーバーを覚悟していた。信長を裏切って謙信側に付いた松永久秀を討った後は、せめて謙信と刺し違えるつもりで戦に臨んだが、またもや悪運が信長に味方する。上杉謙信は、まさに信長を討ち取りに出発する直前に倒れ、急死したのである。継嗣問題で上杉側は混乱に陥り、その隙に信長は上杉領を攻略していく。

先の武田信玄といい、なんだか都合が良すぎるので上杉の死は信長による毒殺ではないかとも言われるが、信長はそんな無粋な戦はしない。

信長の思想

 信長は安土城が完成した時、家臣達を呼び寄せてかく語った。

余が天下を統一し、余自身の帝国を打ち立てた際には――――

「心の貧しい衆生は、賞される。我が帝国はその人たちのものである。」

「悲嘆する衆生は、賞される。彼らは勝鬨を上げる。 」

「忠実な衆生は、賞される。彼らは我が地を受け継ぐ。 」

「血に飢え渇く衆生は、賞される。彼らは血に満たされる。」

「怨み深い衆生は、賞される。彼らは栄光を受ける。」

「心がどす黒く濁った衆生は、賞される。彼らは魔王を見て、魔王と共にいる。」

「混沌と紛争を実現する衆生は、賞される。彼らは魔王の子と呼ばれる。 」

「余のために迫害される衆生は、賞される、帝国は彼らのものである。」

「余の為に罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、諸君らは賞される。 」

「諸君、慶び給え。大いに慶び給え。我が帝国には大きな報いがある。お前たちより前の家臣たちも、同じように迫害されたのである。」

家臣たちにとって、正直その演説は意味不明で難解なものであり到底理解出来なかった。

本能寺の変

天正10年、信長は本能寺に待機し、羽柴秀吉らの軍が集まるのを待っていた。すでに日本史によく出る名前の武将はほぼ全て倒しており、この時点での敵は信長にとっては弱い相手ばかりだった。

そんな中、信長は徳川家康を暗殺する計画を立て、その実行を明智光秀に委ねるが、光秀が応じなかったため、信長は「出された魚が腐っていた」というこじつけの理由で光秀の家康接待役の任を解く。(この時、信長は光秀をキンカン禿と罵り、森蘭丸に鉄扇で光秀を殴らせた。)そして秀吉の軍に加勢する準備をしろと言いつけ、軍勢を集めさせた。

その後、信長は会食で13人の家臣を集め、開口一番、「余が裂くこの刺身はお前たちのために裂かれた余の体、この醤油はお前たちの為に流された余の血である」といって刺身を裂き、醤油に浸して家臣たちに分け与えた。それから「この中に余を裏切る者がいる」と話す。家臣たちは大騒ぎになり、それぞれ「自分は裏切りなどしない」、または「お前が裏切るのではないか」、と口々に言い出した。この時、徳川家康は、他のものが貴方を裏切ろうとも、私は絶対に貴方を裏切りませんといった。信長は、「おまえは余が死んで鶏が三度鳴くときに信長など知らないと三回追っ手に言い、三河に逃げ出すだろう」といった。それからまた、信長は「これから余が刺身を浸して与える者が謀反を起こす者である」と言い、刺身を光秀の口に運んだ。その刺身が非常に不味かったと見え、光秀が怒りを覚えると、彼に悪魔が取り付いた。信長は光秀に「しようとしていることを今すぐ致せ」と言う。光秀はその通りに、謀反を起こす決意をするのだった。これが「本能寺の変」である。

信長は自ら謀反を促している。これは、天下統一の手前まで来たのがおよそ48歳と、敦盛の「人間五十年」に従うと2年も余っているため、そのまま天下を統一してしまったら残りの2年がつまらない余生になってしまうという理由であった。信長は家臣の中で特に(面白みが無く)気に入らない光秀を敵に回し、一生で最も苦しい戦を繰り広げて死のうと考えたのである。

光秀はこの後、一度は秀吉の援軍として兵を率いて出陣したが、途中でそれを止め、有名な「敵は本能寺にあり」という言葉を発し、本能寺へ進路を変える。多くの臣はこの発言を「徳川家康を討つ」と解釈し、信長の首を狙うと知る者は少なかった。

光秀の軍勢は本能寺を完全包囲した。騒がしさに気付いて目を覚ました信長はまだ寝ぼけており、喧嘩があったのかと思ったが、やがて城下にキキョウの紋の旗印が確認されると、信長は「是非に及ばず」と呟き、いよいよだと弓を持つ。これで敵兵の喉を次々と穿っていくが、程なくして弦が切れてしまう。次に槍を構え、敵兵の鎧を貫いてみせるが、3人目を貫いた時に槍が抜けなくなってしまい、攻撃を受けて負傷したところで信長は退却、城の者に逃げるよう告げて、自分は城の奥へ籠る。そして火が放たれると、信長は光秀に首を取らせないよう、ダース・ベイダーと対峙したベン・ケノービのようにその身を無に還してこの世を去った。享年48。 また、信長を討ち取ったのが出木杉英才であるという説もある。

死後

本能寺の変の後に続く時代には、豊臣秀吉が光秀を負かしたり、徳川家康と戦ったりと様々な事件が発生するのだが、ここでは省略する。

光秀は本能寺の変の後、信長の死体を必死に探し回ったが、最後まで見つかる事はなかった。と化したのだからそれも道理である。死体が見つからなかったので棺桶が使われることはなく、そのためこの出来事は日本史上で桶屋が儲からなかった結末の好例としてしばしば挙げられる。生前の信長は多くの死者を出して桶屋の大繁盛を支えたため、彼が死んだことは桶屋にとって大損失であった。

また1994年に突如として復活し「新党のぶなが」を結成。総選挙で過半数を獲得し412年ぶりに信長が政権の座に着いた。

信長に対する様々な人物のコメント

信長は良くも悪くも顔が広かったため、ここではほんの一部を紹介する。
※信長からのお願い : 面白いコメントだけ掲載してほしい。史実なんか気にするな!

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、徳川家康
「鳴かぬなら おべっかを使え ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、豊臣秀吉
「鳴かぬなら いいから殺せ ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、明智光秀
「鳴かぬなら ケ・セラ・セラ ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、朝倉義景
「鳴かぬのは 義景のせいだ ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、武田信玄
「酒が飲めない輩には塩を送ってやる……毘沙門天の怒りである」
~ 織田信長 について、上杉謙信
「鳴かぬなら 独眼竜だよ ホトトギス」
~ ホトトギス(信長) について、伊達政宗
「鳴かぬなら 泣きたいだけ 泣くがよい」
~ ホトトギス(信長) について、卓球少女
「私にとって、始めは信長は命のように大切な人材だった。その後は、ゴキブリのように気に入らない人物になったが、終いには悪魔よりも恐ろしい人物になった。」
~ 織田信長 について、足利義昭
「余の辞書に織田信長という字はない。これほど完全な強者であるというのに。」
~ 織田信長 について、ナポレオン・ボナパルト
「我々の手品では、彼を引き出すことは出来ない。」
~ 織田信長 について、ナポレオンズ
「地雷を踏んだらサヨウナラ。お寺を焼いたらオシマイダ。」
~ 織田信長 について、一ノ瀬泰造
足利王朝を滅ぼし、京都の僧侶たちを焼き殺したのに、天皇王朝を滅ぼさないとは何事だ!既存の王朝を皆殺ししなかった信長が革命児とはチャンチャラおかしい!!」
~ 織田信長 について、ウラジーミル・レーニン
「洛中で同時多発テロを起こすなら、室町と御所を同時に襲撃すれば良かったじゃん。」
~ 織田信長 について、モハメド・アタ
「お前が天皇家を滅ぼしていたら、不敬罪治安維持法原爆投下もなかったんだ!信長の愚野郎!!」
~ 織田信長 について、広島市民一同&長崎市民一同
「これはねえ、やっぱり狂ってますよ。この織田信長は。
顔見てご覧なさい。目はつり上がってるしね。顔がぼうっと浮いているでしょ。
これ気違いの顔ですわ」
~ 織田信長 について、塩爺
「織田信長の物は私の物、私の物も私の物よ」
~ 織田信長 について、真紅
テンプレート:語録 (又吉イエス)

関連項目

Bouncywikilogo.gif ウィキペディアにも「織田信長」の項目がありますが、荒らし等の理由で保護されています。
ノーベル賞受賞者
受賞年: 1589年
受賞部門: ノーベル平和賞
受賞理由: 天下統一を成し遂げた功績に対して。

テンプレート:ANAL MSS