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(海軍内部の良識派)
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2020年1月8日 (水) 04:21時点における版

{{日本の内閣総理大臣 |[[米内内閣|37]] |米内 光政<br/>(よない みつまさ)<br/>[[Image:Mitsumasa Yonai smiling cropped.jpg|200px]] |[[明治]]13年([[1880年]])[[3月2日]]<br/> |[[岩手県]][[盛岡市]] |[[海軍大学校]] |[[海軍大将]]<br/>[[従二位]]<br/>[[勲一等]]<br/>[[功一級]][[金鵄勲章]] |[[軍事参議官]] | |[[1940年]]([[昭和]]15年)[[1月16日]]|1940年(昭和15年)[[7月22日]] |非議員 | |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1948年]](昭和23年)[[4月20日]]}} '''米内 光政'''(よない みつまさ、[[1880年]]([[明治]]13年)[[3月2日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[4月20日]])は[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[海軍軍人|軍人]]、[[政治家]]。身長180cm。体重97kg。 [[連合艦隊司令長官]]、[[海軍大臣]]、第37代[[内閣総理大臣]]などを歴任。海軍内の[[条約派]]・[[親英米派]]として[[山本五十六]]、[[井上成美]]らと[[日独伊三国軍事同盟|三国同盟]]・[[日米開戦]]に反対。その後最後の海軍大臣として日本を[[太平洋戦争]]の[[終戦]]へと導くことに貢献した。[[海軍大将]]・[[従二位]]・[[勲一等]]・[[功一級]]。 == 生涯 == === 生い立ち === [[1880年]]([[明治]]13年)旧[[盛岡藩]]士米内受政の長男として現在の[[岩手県]][[盛岡市]]に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したりしたため、一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け、苦学の末、[[盛岡市立下橋中学校|盛岡高等小学校]]、[[岩手県立盛岡第一高等学校|岩手県尋常中学校]]を経て、[[1901年]](明治34年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を卒業。ハンモックナンバーは中の下であった。 [[1903年]](明治36年)任海軍少尉。[[1905年]](明治38年)[[日露戦争]]に従軍。[[1914年]]([[大正]]3年)[[海軍大学校]]を卒業。[[第一次世界大戦]]後のロシアとポーランドに[[大使館]]付[[駐在武官]]として駐在し、[[ロシア革命]]の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。ロシア革命に関する論文もある。大戦後の[[ドイツ]]の首府[[ベルリン]]でも情報収集の任に当たっている。[[将官]]昇進後は[[中国]]勤務も多かった。 === 海軍内部の良識派 === [[画像:Mitsumasa Yonai.jpg|thumb|150px||left|連合艦隊司令長官当時(1936年頃)]] [[1930年]]([[昭和]]5年)には[[中将]]になり、[[朝鮮]]の[[鎮海要港部]]司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」「島流し」と言われ米内が赴任した頃は一週間に半日仕事があれば良い方だと言われた閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は[[漢書]]から[[ロシア文学]]や[[社会科学]]、果ては中学の後輩である[[野村胡堂]]の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている<ref>[[荒城二郎]]に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官と言ってもほとんどやることがない執務中にも読書をしていたという。</ref>。 大臣秘書官だった[[実松譲]]中佐が米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。'''人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義たらしめることが大切だ'''」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。 [[1932年]](昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。[[佐世保鎮守府]]長官のとき[[友鶴事件]]が発生する。米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。この時査問委員会の一人である[[森田貫一]]機関中将が佐世保を訪れて米内を訪ねた際、米内は「これは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっかりやってくれ」と言っている。森田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。役人根性むき出しで責任回避をはかりうやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになっていただろう」と感激したという<ref>吉田俊雄著『日本海軍のこころ』</ref>。 [[画像:Yonai Mitsumasa.jpg|thumb|175px|海軍大将礼装(1936年頃)]] [[二・二六事件]]の起こった[[1936年]](昭和11年)年[[2月26日]]、米内は[[横須賀鎮守府]]司令長官だったが、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の[[待合茶屋]]に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい<ref>待合の女中の妹の結婚式に参加し、二次会で早朝まで東京に滞在していたことを待合の関係者が証言しており、それが事実なら当時女房役だった参謀長井上成美が知らないわけがなく、井上が戦後に語った「思い出の記」では、意図的に米内を庇っていると思われる。</ref>。その直後に[[横須賀線]]はストップしたというから危ないところだった。鎮守府に着いた米内は[[参謀長]]の[[井上成美]]とともにクーデター部隊を「[[反乱軍]]」と断定、制圧の方向で大いに働いた。 その後の人事異動で[[連合艦隊]]に転出、[[連合艦隊司令長官]]兼[[第一艦隊]]司令長官に任ぜられた。 [[1937年]](昭和12年)[[林内閣|林銑十郎内閣]]で[[海軍大臣]]<ref>軍政が嫌いだった米内は、連合艦隊司令長官を就任僅か2ヶ月で退任させられて、海相に任ぜられた事を非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。</ref>、任[[海軍大将]]。その後[[第1次近衛内閣|第一次近衛文麿内閣]]、[[平沼内閣|平沼騏一郎内閣]]でも海相を務めた。 極端に口数が少なく、[[演説]]の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった[[南部弁]]を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った<ref>他にも、[[1923年]]に練習艦「[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]」の艦長として訪問した[[ニュージーランド]]の小学校で挨拶をした際は、「I'm glad to see you,thank you.」としか話さなかったり、海軍省最後の日となった1945年11月30日に、最後の海軍大臣として挨拶をした際にも、[[朝日新聞]]の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わったなどといった逸話がある。しかしプライベートでは饒舌だったという話もあり、「米内さんは口数が少ないと言われているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中の証言や、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。</ref>。 近衛内閣時代、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]を仲介とした対中和平交渉である[[トラウトマン工作]]の打ち切りを主張。[[平沼内閣]]時代には[[山本五十六]]海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・[[イタリア]]との提携に反対し続ける。 [[1938年]][[11月25日]]の5相会議で米内は[[海南島攻略]]を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識だったので、米内・山本両首脳も「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知の沙汰であったと思われる。 === 首相就任 === [[画像:Yonai comforting kids 29 March 1940.jpg|thumb|left|150px|郷里岩手県の戦災遺児を官邸に招いて励ます米内総理(1940年3月29日)]] {{See also|米内内閣}} [[1940年]](昭和15年)[[1月16日]]、[[予備役]]編入とともに[[内閣総理大臣]]に就任する。米内を総理に強く推したのは[[昭和天皇]]自身だったようだ。この頃、ドイツ総統[[アドルフ・ヒトラー]]はヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、[[軍部]]はもとより、世論にも[[日独伊三国軍事同盟]]締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『[[昭和天皇独白録]]』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。 [[画像:Yonai reading a memo at the House cainber during the assembry.jpg|thumb|right|240px|衆議院本会議場の総理大臣席でメモに目を通す米内総理(1940年2月2日)]] そんな米内は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]とうまく行かず、[[倒閣]]の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は[[畑俊六]][[陸軍大臣]]を辞任させて後継陸相を出さず、[[米内内閣]]を総辞職に追い込んだ。当時は[[軍部大臣現役武官制]]があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた<ref>倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。[[6月7日]]に[[立憲政友会|立憲政友会正統派]][[総裁]][[久原房之助]]が同様の要求を行って拒絶されると、[[内閣参議]]を辞職して[[松野鶴平]][[鉄道大臣]]ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように[[新体制運動]]を支持する意見と[[鳩山一郎]]のように[[立憲民政党]]と合同してでも[[政党政治]]を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。</ref><ref>畑は当時の[[陸軍参謀総長]]だった[[閑院宮載仁親王]]から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。</ref>。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、[[宮内大臣]]を務めたことがある[[石渡荘太郎]]([[平沼騏一郎内閣]]時の大蔵大臣、米内内閣時の内閣書記官長)に語っている。 総理大臣を辞任した直後に、[[日光市|日光]]を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という[[短歌]]と、「寝たふりを しても動くや 猫の耳」という句を詠んでいる。 === 帝国海軍の幕引き役 === [[画像:Koiso cabinet photo op.jpg|thumb|right|240px|小磯内閣で海相を務める(前列最右、1944年[[7月22日]])]] [[画像:Kantaro Suzuki cabinet.jpg|thumb|right|240px|鈴木内閣で海相に留任(前列右、1945年[[4月7日]])]] [[画像:Cabinet_of_Prince_Higashikuni_Naruhiko.jpg|thumb|right|240px|東久邇宮内閣で再び近衛と閣内に(二列目左から二人目、1945年[[8月17日]])]] [[画像:Shidehara cabibet.jpg|thumb|right|240px|幣原内閣で「最後のご奉公」(前列左から三人目、1945年[[10月9日]])]] [[1943年]](昭和18年)、[[ブーゲンビル島]]で戦死した盟友、連合艦隊司令長官・[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長をつとめる。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに[[井上成美]]とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった<ref name="A">阿川弘之『米内光政』</ref><ref>阿川弘之『山本五十六』</ref>。山本五十六の戦死の直前、米内の夢の中に山本が現れたという。山本の戦死が公表されると、米内は[[朝日新聞]]に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている<ref>朝日新聞昭和18年5月22日号</ref>。 [[1944年]](昭和19年)、[[東条内閣]]が倒れると、[[予備役]]から[[現役]]に復帰して[[小磯内閣]]で再び海軍大臣となる。陸軍出身の[[小磯國昭]]と共に組閣の大命を受けた経緯から副総理格とされ、「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は次官の[[岡敬純]]を「岡は一夜にして放逐する」と更迭、[[横須賀鎮守府]]でコンビを組んだ[[井上成美]](当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた<ref>井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。[[東條内閣]]末期から米内邸に日参していた中山定義によると、大臣就任前から「井上は今どこにいる」「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、米内が大臣に復帰したら次官は必ず井上だという感触をつかみ嬉しくなったと著書で述べている。</ref>。[[1945年]](昭和20年)[[鈴木貫太郎内閣]]にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や[[木戸幸一]][[内大臣]]に申し入れていたのだった<ref>この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『思い出の記』)。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。</ref>。 米内は海相として[[太平洋戦争]]終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では[[阿南惟幾]][[陸軍大臣]]と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った<ref>のちに米内と共に内閣で終戦を主張する[[外務大臣]]・[[東郷茂徳]]は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたと言われている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で[[5月11日]]の[[戦争最高指導会議]]構成員会合においで米内が[[ソ連]]を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられる。</ref>。 終戦直前の[[1945年]][[8月12日]]、主戦派の[[大西瀧治郎]][[海軍中将]]([[軍令部]]次長)が[[豊田副武]][[海軍軍令部]]総長を通じ終戦反対の意を勝手に昭和天皇に[[帷幄上奏]]し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責した。大西と豊田は抗弁したが、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであった<ref>米内が豊田総長・大西次長をトップに置いたことは、昭和天皇が「司令官として成績不良の者を総長に持ってくるのはどうか」と米内の人事に苦言を呈したことがあり、米内は「豊田は若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答したが、豊田は結局「若い者」に押し切られた形になり、「これは米内の(人事の)失敗である。米内のために惜しまれる」と天皇自身が述べている。</ref>。 鈴木内閣の[[陸軍大臣]]だった[[阿南惟幾]]は[[終戦の日]]当日に「米内を斬れ」と言い残して<ref>元々、米内と阿南は気質的な部分で反りが合わず、[[竹下正彦]]陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった[[鈴木貫太郎]]首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も[[小島秀雄]]海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている([[阿川弘之]]『米内光政』)。また、終戦の[[玉音放送]]の原稿についても、「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあるという。</ref>[[8月14日]]、自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]へ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった<ref>ある知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物をすべてまとめており「(収監される)準備は完了だよ」と笑顔で答えたという。</ref>。しかも米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、[[GHQ]]の某軍人が元秘書官である[[麻生孝雄]]のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って[[日独伊三国同盟]]と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また[[保科善四郎]]や[[吉田英三]]、[[豊田隈雄]]などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、[[東久邇内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]、[[幣原喜重郎内閣]]でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から<ref>[[血圧]]は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。</ref>辞意を固めていたにもかかわらず[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の意向で留任している。 === 東京裁判 === 戦後の[[東京裁判]]では[[証人]]として[[1946年]]3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。 その上で、[[満州事変]]、[[日中戦争]]、日米開戦を推進した責任者として、[[土肥原賢二]]、[[板垣征四郎]]、[[武藤章]]、文官では[[松岡洋右]]の名前も挙げて、陸軍の[[戦争責任]]を追及している。しかし、何故か[[東條英機]]の責任については言明する事がなかった<ref>1941年(昭和16年)10月に[[近衞文麿]]が内閣を投げ出すと、後継首班を決める[[重臣会議]]では[[及川古志郎]]海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と[[岡田啓介]]で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。</ref>。 一方で、陸軍大臣単独辞任で[[米内内閣]]を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれる事になった[[畑俊六]]に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長から「You are the most stupid prime minister I have ever seen.(こんな阿呆な総理大臣を見たことがない)」と罵られた。一方で、[[ジョセフ・キーナン]]首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。米内は素晴らしい」と敬意を表し、日本を離れる際自筆の晩餐会招待状を送り、健康上の理由で米内が断っても「是非お会いしたい」と何度も招待している<ref>[[山田風太郎]]は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している(『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5)。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が[[参謀総長]]の[[閑院宮載仁親王]]を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼす事を恐れて実状を口にする事を避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた[[緒方竹虎]]は聞いている。しかし、畑自身は米内の韜晦に「何だあんな馬鹿な態度は」と怒り心頭で、それを聞いた豊田隈雄は「何故米内さんの身を呈した苦心がわからないのか」と心外に思ったという。しかし畑はその後米内の真意を知り、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)(東京裁判にて)毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。</ref>。 [[1946年]](昭和22年)元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、[[北海道]][[釧路町]]で牧場経営に参加する。北海道牧場株式会社(通称 霞ヶ関牧場) [[1948年]](昭和23年)[[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い[[脳溢血]]に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の[[高血圧症]]に[[腎臓病|慢性腎臓病]]の既往症があり、さらに[[帯状疱疹]]にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた<ref name="A"/>。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたと言える。 米内の死後12年を経た[[1960年]](昭和35年)、[[盛岡八幡宮]]境内に背広姿の米内の銅像<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ren-yonai04.jpg 背広姿の米内の銅像]</ref>が立てられ、[[10月12日]]に除幕式が行われた。その直前に、[[巣鴨プリズン]]から仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという。<ref name="A"/>。 == 人物 == * [[海軍兵学校]]での成績は良い方ではなく、卒業時の席次は125人中68番であった。卒業時席次が退役に至るまで出世に影響した日本海軍にあって、この成績で海軍大将まで昇進し、[[海軍大臣]]や[[連合艦隊司令長官]]に就任したのは極めて異例のことであった。後の研究で、当時の米内のノートを見ると記述の質・量が圧倒的であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していた。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては異彩を放つ勉強法であり、海軍兵学校の試験の点数が上がらなかったのもそのためであったのだろうと推測される。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の[[藤田尚徳]]は人事局長時代、当時の[[谷口尚真]][[呉鎮守府]]司令長官から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという<ref>谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという(阿川弘之『米内光政』)。</ref>。 * [[藤田尚徳]]が海軍次官の時、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]][[司令長官]]に就いていた米内が[[インフルエンザ]]をこじらせて[[胸膜炎]]になり療養を必要としたが米内は拒絶した。藤田は[[高橋三吉]]軍令部次長と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。米内を知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することが出来た。 [[Image:Yonai and his staff.jpg|thumb|right|240px|親睦会で米内(中央)を囲む「一六会」の面々(1940年10月)]] * 米内は当時の軍人としては珍しい国際的視野を持っていた。[[ロシア語]]が堪能なことで知られ<ref>ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る[[海軍省]]内唯一の人」と回想し、[[佐世保鎮守府]]参謀時代は「暇つぶし」と称して『[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。</ref>、[[大使館]]付[[駐在武官]]として[[ロシア]]・[[ポーランド]]・[[ドイツ]]・[[中国]]に赴任した経験があり、将官昇進後は中国勤務も多かった。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。 * 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた<ref>陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣崩壊と)関係ないから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。</ref>。[[米内内閣]]が成立した日も総辞職した日も16日だったことから「'''一六会'''」と名付けられ、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。また[[昭和天皇]]も「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と侍従に述べたという。 * 米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた[[井上成美]]は戦後、「[[海軍大将]]にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは[[山本権兵衛]]、[[加藤友三郎]]、米内の三人だけであったという<ref>井上の手にかかると、[[東郷平八郎]]でも「三等大将」であった。[[山本五十六]]に関しては、[[連合艦隊司令長官]]の時に[[近衛文麿]]に語った「(アメリカとの戦争に関して)半年や1年は暴れてみせます。しかしそれ以後はわかりません」という発言を取りあげ、「あれはいけない。軍事に素人で悪い意味で楽観的な近衛さんには何故はっきり『戦争は出来ません。この発言が不穏当であれば司令長官を辞します』と言わなかったのか。山本さんのために惜しまれる」と「(前述の発言さえなければ一等大将という)条件付き一等大将」としている。また、自身も大将であった井上自身の論評は「私なんか大将の器でもないのに大将になったので論外」と言ったという。</ref>。井上成美自身は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん([[山本五十六]])はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった[[小泉信三]]は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」([[大西新蔵]])、「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」([[保科善四郎]])と、米内に接した数多くの人々が彼の人柄を絶賛している。しかし、[[大井篤]]は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている<ref>大井は終戦間際の[[井上成美]]の大将昇進、[[軍令部]]次長に[[大西瀧治郎]]を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えたという。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」としている。また、山本五十六が海軍次官として米内の部下だった頃に「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。</ref>。 * [[保科善四郎]]が[[第三艦隊]]の参謀だった頃、旗艦[[二見 (砲艦)|二見]]が[[長江|揚子江]]を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。保科は「米内さんのような、命をかけて国に尽くしている人材をここで失くしてはならない。温存する必要がある」と電報を預かり、打ったフリをして独断で握り潰した。もしそのまま進退伺を出していれば確実に受理されて依願予備役になっていたものと思われ、「我ながら傑作だった。あれでクビになっていたら日本は本土決戦でメチャクチャになっていたよ」と語っている。また[[広田弘毅内閣]]崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の[[永野修身]]を説得して米内の大臣就任の了承を取ったのも当時軍務局第一課長だった保科である。 * 海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科は[[Y委員会]]を通して現在の[[海上自衛隊]]創設に間接的に影響を与えており、保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。 * 二期上の[[末次信正]]との関係は宴席で口論となる、会っても口を聞かないなど最悪であった。戦争終盤、米内の現役復帰を画策した[[岡田啓介]]は、米内を円満に海軍へ復帰させるには海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要があるとの声を受けた為、岡田は[[藤山愛一郎]]の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に勤め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の[[軍令部総長]]への復帰話は天皇の反対等と末次の急病と悪化の為それっきりとなってしまった。軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうかと米内に勧めるものもいたが、米内は応じなかったという<ref>これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収集がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』によれば「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次の事を調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とされている。</ref>。 * 趣味は[[長唄]]と[[日曜大工]]だった。長唄は[[遊女]]の哀れを歌った色っぽいものを好んだ。また[[ロシア文学]]にも親しみ、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]を愛読した。 * 酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。総理大臣の時に[[満州国]]の皇帝[[愛新覚羅溥儀]]が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、[[高松宮宣仁親王]]が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、ある芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。酔っ払うことはほとんどなかったそうだが、ほろ酔い加減になると[[長唄]]の調子が棒読みになったという証言があり、[[ロシア]]駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことがある自身のエピソードを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言っている。[[保科善四郎]]も「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。 * 酒のつまみには[[おから]]をよく食べていたらしい。又、海軍料亭等で飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。しかし、「米内さんはお金はありませんでした」とも言われており、海軍随一の重鎮にしては清廉な生活をしていた事を伺わせている<ref>米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、[[佐世保鎮守府]]長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の[[荒城二郎]]向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。</ref>。 * 若い頃のエピソードとして、自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。周りの者はまさか冗談だろうと誰も信じていなかったらしい。 * 海軍大臣を務めていた頃、年末になると海軍からは[[賞与|ボーナス]]が、内閣からは[[手当 (公務員)|手当]]が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内はニコニコして受け取ったという。 * 坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から[[鼻メガネ|鼻眼鏡]]を愛用した。[[練習艦]]「[[磐手]]」艦長時代に当時の[[横須賀鎮守府]]長官[[野間口兼雄]]大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても「ウフフ」と笑うだけ、切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では[[囚人]]の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという<ref>もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという。</ref>。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。 [[Image:Yonai, Itagaki, Tojo.jpg|thumb|right|240px|[[板垣征四郎]]陸相(中央右)の就任祝賀会に参加する米内海相(中央左)。板垣の右には陸軍次官の[[東條英機]]も見える。(1938年)]] [[Image:Yonai and Itagaki honoring their teacher.jpg|thumb|right|240px|[[岩手県立盛岡第一高等学校|尋常中学]]時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相。(1939年[[6月3日]])]] * 長身で日本人離れした風貌でもあったため女性によくもてたようで、特に[[花柳界]]では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、[[愛人]]だったと称する女性にあちこちで会ったり、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。[[佐世保鎮守府]]長官退任の際、[[佐世保駅]]周辺には見送りに訪れた[[芸者]]で黒山の人だかりができたといわれている。また横須賀鎮守府長官時代に[[上海]]から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在の[[ストーカー]]のようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった[[井上成美]]も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している<ref>これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消えそれ以後の消息は不明だという。</ref>。 * 海相時代、中国・[[華南]]で[[ハンセン氏病]]に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった[[清水光美]]に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。 * 同じく海相時代、[[下士官]]・[[兵 (日本軍)|兵]]の家族の[[福利厚生]]、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は[[大蔵大臣]]に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を[[大蔵省]]に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に[[財界]]の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決したのだが、これは米内の人柄によるものであろうと誰もが絶賛した。 * 米内と[[陸軍大将]]の[[板垣征四郎]]は政治的立場も思想も異なったが、同郷([[岩手県]])出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っつぁん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた[[岩手県立盛岡第一高等学校|尋常中学]]時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の[[野村胡堂]]、言語学者の[[金田一京助]]など、冨田の教え子たちが多く集った。 * [[1939年]](昭和14年)に[[豊後水道]]で[[潜水艦]]が沈没し[[呉鎮守府]]が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が[[海軍省]]に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。 * 戦後に[[昭和天皇]]も招かれた[[学士院]]会員の会食の際、天皇が[[小泉信三]]に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と語った。それで他の参加者が米内の思い出話を紹介していたが、天皇が「惜しい人であった」と黙り始めたので、皆も天皇と同じくしたという逸話がある。 * 長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と剛政は述懐している<ref>『米内光政のすべて』より。</ref>。 * 総理大臣を辞任後、病院通いに[[東京市電]]を利用していたが、長身で目立ったせいか元総理ということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりして「困ったな」と言いながらも嫌な顔もせず談笑やサインに応じていた。元とは言え総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが普通で<ref>海軍から公用車が派遣されたが、「[[予備役]]なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使い、国民の顰蹙を買っている。</ref>、[[公共交通機関]]を使って通院した戦前の総理は米内くらいだという。 * [[空襲]]で[[海軍省]]と大臣官邸が焼けてしまい、麻生孝雄秘書官が[[堤康次郎]]所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。 * 第一期大臣時代、[[月月火水木金金|休日返上]]で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の[[井上成美]]、軍令部次長の[[古賀峯一]]などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は[[山本五十六]])を使って芸者手製の弁当を食べていたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官をすべてクビにしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは[[ドッキリ|悪戯]]ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたというエピソードがある<ref>もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と消極的だったと記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。</ref>。 * 戦前の閣僚の中では、[[鈴木貫太郎]]と並んで昭和天皇からの信任が最も厚かったといわれている。海軍省廃止の翌日の[[1945年]][[12月1日]]に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。これからは会う機会も少なくなるだろう。健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという<ref>侍従など天皇のお側に仕えた人以外ではほとんど例がなく、極めて異例のことであった。現在その硯は、盛岡市にある[[先人記念館]]に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して硯のみ「米内家からの貸与」となっている。</ref>。 * 戦後高血圧で悩まされた際、[[幣原内閣]]の[[外務大臣]]だった[[吉田茂]]から、当時銀座で開業していた[[武見太郎]]を紹介され、武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である[[牧野伸顕]]より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日頃から聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという<ref>吉田から「この人からは金を取るな」と言われていたのは、他にも[[岡田啓介]](元海軍大将)がいる。</ref>。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。 == 評価 == [[林銑十郎内閣]]で[[海軍大臣]]であった際、[[1938年]][[1月15日]]の[[大本営政府連絡会議]]において、[[蒋介石]]政権との和平交渉継続を強く主張する陸軍の[[多田駿]]参謀次長に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、[[中国]]における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある<ref>[[豊田穣]]などは「米内があまりに陸軍に不勉強、あるいは予想以上に陸軍が海千山千だった結果で、この反省は[[日独伊三国同盟]]締結の際の抵抗に活かしている」としている。</ref>。 ただし当時のアメリカのメディアはというと、意外なほど米内に対して親英米派の提督として好意的な好奇心を抱いていた。ニュース雑誌の草分けとして1923年の創刊以来内外のさまざまな出来事を取材してきた[[タイム誌]]は、海軍大臣のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19370830,00.html 1937年8月30日号]</ref>と総理のとき<ref>タイム [http://www.time.com/time/covers/0,16641,19400304,00.html 1940年3月4日号]</ref>の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾る[[タイム誌#表紙を飾った日本人|カバーパーソン]]として扱っている。タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまで30回あるが、そのうち一人で複数回登場しているのは他には昭和天皇の6回と近衛文麿の2回を見るのみとなっており、米内に対する破格の関心が窺える。 米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと<ref>読売新聞、2006年8月15日、第46850号 12版。米内はこの言葉の後に「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と続いている。また、同じ発言を近衛文麿も細川護貞に語っている。</ref>、戦争への危機感が高まる中、[[海軍左派]]を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと<ref>[[豊田隈雄]]が主に主張していた。</ref>、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして[[連合艦隊司令長官]]に転出させたこと、終戦間際に[[井上成美]]海軍次官を大将に昇格させた上で次官を辞任させ、後任次官に[[多田武雄]]、軍務局長に周囲から[[本土決戦]]派と見なされていた[[保科善四郎]]を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の[[大西瀧治郎]]を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある<ref>海軍軍人の政治音痴・政治嫌いは米内に限ったわけではなく、海軍全体の最大のネックとまで言われていた。</ref>。 その一方で、当時の状況下で、他には誰も何もしようとする者がいない中、公人として「アメリカと戦争をしても負ける。海軍は[[専守防衛]]の軍隊である」「[[統制経済]]のやりすぎは国を滅ぼす」「軍人は政治に深入りするな」と公の場で発言した唯一の人であり、やれるだけの事はやったという見方もある。重臣の一人として、また海軍の大御所として、小磯・鈴木の両内閣では重石のような役割を果たし、落ちるべきものを落ちるべきところへ落とさせたその手腕は並大抵のものではないという意見も根強く、山本五十六と同様、人によって「名将」か「愚将」で評価が二分されている。 中国文学者の[[守屋洋]]は『[[老子]]』を解説した著書の中で[[大山巌]]と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている<ref>部下として数回米内に接した[[前田稔]]は、「米内さんは[[老荘思想|老荘]]の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている(阿川弘之『米内光政』)</ref>。 == 年譜 == * [[1880年]]([[明治]]13年) - [[岩手県]][[盛岡市]]下小路に生まれる。 * [[1986年]](明治19年) - 鍛冶町尋常小学校に入学。 * [[1891年]](明治24年) - 下橋高等小学校に入学。 * [[1894年]](明治27年) - 岩手尋常中学校(現[[岩手県立盛岡第一高等学校]])に入学。 * [[1898年]](明治31年) - [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入学。 * [[1901年]](明治34年) - 海軍兵学校卒業(第29期)。海軍少尉候補生。練習艦「金剛」乗り組み。 * [[1903年]](明治36年) - 任[[海軍少尉]]。 * [[1904年]](明治37年) - [[日露戦争]]に第三艦隊第十六水雷艇隊、第一艦隊駆逐艦「電」に所属し従軍。任[[海軍中尉]]。 * [[1906年]](明治39年) - 功五級[[金鵄勲章]]。大隈コマと結婚。任[[海軍大尉]]。 * [[1912年]]([[大正]]元年) - 任[[海軍少佐]]、海大甲種学生。 * [[1914年]](大正3年) - [[海軍大学校]]卒業(第12期)。 * [[1915年]](大正4年) - [[ロシア]]駐在([[サンクトペテルブルグ]];駐在武官補佐官;1915年2月-1917年4月)。 * [[1916年]](大正5年) - 任[[海軍中佐]]。 * [[1918年]](大正7年) - [[ソビエト連邦|ソ連]]駐在([[ウラジオストック]];1918年8月-1919年9月)。 * [[1920年]](大正9年) - 任[[海軍大佐]]。[[ベルリン]]に駐在(1920年6月-)。 * [[1921年]](大正10年) - [[ポーランド]]駐在員監督。 * [[1922年]](大正11年) - [[装甲巡洋艦]]『[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]』艦長。 * [[1923年]](大正12年) - 装甲巡洋艦『[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]』艦長。 * [[1924年]](大正13年) - [[戦艦]]『[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]』、『[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]』艦長。 * [[1925年]](大正14年) - 任[[海軍少将]]、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]参謀長。 * [[1928年]]([[昭和]]3年) - [[第一遣外艦隊]]司令官。 * [[1930年]](昭和5年) - 任[[海軍中将]]、鎮海要港部司令官。 * [[1932年]](昭和7年) - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。 * [[1933年]](昭和8年) - [[佐世保鎮守府]]司令長官。 * [[1934年]](昭和9年) - 第二艦隊司令長官。 * [[1935年]](昭和10年) - [[横須賀鎮守府]]司令長官。 * [[1936年]](昭和11年) - [[連合艦隊]]兼[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官。 * [[1937年]](昭和12年) - [[海軍大臣]]、任[[海軍大将]]。 * [[1939年]](昭和14年) - [[軍事参議官]]。 * [[1940年]](昭和15年) - [[予備役]]に編入され[[内閣総理大臣]]となる。 * [[1943年]](昭和18年) - 戦死した連合艦隊司令長官[[山本五十六]]の[[国葬]]委員長をつとめる。 * [[1944年]](昭和19年) - [[現役]]に復帰して海軍大臣となる。 * [[1945年]](昭和20年) - [[鈴木貫太郎]]内閣に海軍大臣として留任。 * [[1948年]](昭和23年) - [[肺炎]]により死去。68歳と1ヵ月だった。 == 米内を演じた俳優 == * [[山村聡]] 「[[日本のいちばん長い日]]」(1967年 東宝) * [[松本白鸚 (初代)|松本白鸚]] 「[[連合艦隊司令長官 山本五十六]]」(1968年 東宝) * [[渡辺文雄]] 「[[海にかける虹〜山本五十六と日本海軍]]」(1983年 テレビ東京[[新春ワイド時代劇]]) * [[村上幹夫]] 「[[山河燃ゆ]]」(1984年 NHK大河ドラマ) * [[村井国夫]] 「海の夕映え 最後の海軍大将井上成美」(1992年 日本テレビ) * [[神山繁]] 「ヒロシマ 原爆投下までの4か月」(1996年 NHK) * [[原田大二郎]] 「[[聖断]]」(2005年 テレビ東京) * [[西沢利明]] 「[[太陽 (映画)|太陽]]」(2005年 ロシア映画) == 系譜 == 米内家は[[摂津国]]大坂から盛岡に移住し、[[南部信直]]に仕えた[[宮崎庄兵衛勝良]]を祖とし、三代目[[傳左衛門秀政]]の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が[[出雲国]][[米内郷]]から来るもので、本来の[[陸奥国]]の[[米内氏]]の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。 陸奥米内氏は[[一方井]]氏の分家筋にあたり、[[一方井氏]]は[[俘囚]]長[[安倍頼良]]・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を[[安倍貞任]]の末裔だと称していた。 三女和子が元[[竹中工務店]]会長の[[竹中錬一]]に嫁いでいる。 <pre>   ┏竹中藤右衛門━━┳寿美   ┃        ┃   ┃        ┣竹中宏平   ┃        ┃  ┣━━竹中祐二   ┗竹中藤五郎   ┃ りゅう子  ┃            ┃       ┃            ┃竹下登━━━━公子              ┃(首相)            ┃            ┃(15代)            ┗竹中錬一              ┣━━━竹中統一     米内光政━━━┳和子      (首相)  ┃            ┗米内剛政 </pre> == 伝記 == *『米内光政』([[阿川弘之]] 著、[[新潮社]]のち同文庫)ISBN 4-10-300413-2 C0093 *『一軍人の生涯』([[緒方竹虎]] 著、文芸春秋新社、のち光和堂) *『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著、[[原書房]]上下) *『米内光政の手紙』(高田万亀子 著、原書房) *『米内光政のすべて』編著 (新人物往来社 1994年) *『海軍大将米内光政覚書』([[実松譲]]、[[高木惣吉]]編、光人社)ISBN 4-7698-0021-5 C0095 *『米内光政 <small>山本五十六が最も尊敬した一軍人の生涯</small>』(実松譲 著・光人社NF文庫)ISBN 4-7698-2020-8 C0195 **新版『海軍大将 米内光政正伝 <small>肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯</small>』(実松譲 著・光人社、2009年) *『米内光政秘書官の回想』(実松譲 著・光人社) *『激流の小舟 提督・米内光政の生涯』([[豊田穣]] 著、講談社文庫上下のち光人社) *『海軍 一軍人の生涯 最後の海軍大臣 米内光政』(松田十刻 著、光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2512-9 *『米内光政追想録』(米内光政銅像建設会、1961年) *『米内光政』(神川武利著 PHP文庫 2001年) *『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』(三村文男 著、テーミス) ISBN 978-4901331067 == 参考文献 == * 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、213-216頁 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==関連項目・人物== *[[米内内閣]] *[[竹中工務店]] *[[大日本帝国海軍軍人一覧]] *[[佐久間勉]] == 外部リンク == *[http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/ren-yonai.htm 米内光政] *[http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/senjin/senjin/yonai/index.html ウェブもりおか:先人記念館:米内光政の生涯と略歴] <br clear="all" /> {{start box}} {{s-off}} {{succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]] | before = [[阿部信行]] | years = 第37代:1940年 | after = [[近衛文麿]] }} {{succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[海軍大臣]] | before = [[永野修身]]<br/>[[野村直邦]] | years = 第21代:1937年 - 1939年<br/>第26代:1944年 - 1945年 | after = [[吉田善吾]]<br/>[[第二復員省]]へ移行 }} {{s-mil}} {{succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[連合艦隊司令長官]] | before = [[高橋三吉]] | years = 第23代 : 1936年 - 1937年 | after = [[永野修身]] }} {{end box}} {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[米内内閣|37]] |在任期間=1940年 |前代=36 |前首相名=阿部信行 |次代=38・39 |次首相名=近衛文麿}} {{海軍大臣}} {{DEFAULTSORT:よない みつまさ}} [[Category:日本の内閣総理大臣]] [[Category:日本の海軍軍人]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:岩手県の政治家]] [[Category:1880年生]] [[Category:1948年没]]