榊原康政

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小牧・長久手の戦いでの榊原康政(楊洲周延画)

榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。

徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。

生涯

出生から家督相続

榊原氏三河にて発生した氏族、松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣であった。

天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。康政は幼くして松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆の平定に従軍した時、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続しているが、理由として、清政が三河一向一揆に参加したため遠ざけられたとする説と、謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康に近侍していたことを理由とする説がある。

永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。家康が駿河国今川氏から独立し、尾張国織田信長に従うと、姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を立てた。特に姉川では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。

本能寺の変後

天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書いたという。

激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された[1]

天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を努めた。同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、上野国館林城群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。

江戸時代期

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃国上田城長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許されたと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。

関ヶ原の合戦の後に老中となるが、所領の加増は無かった。家康が冷徹であったとする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけたことを挙げることもあり、康政らはこれに憤慨していたという説もある[2]。別に、康政が本多正信が既に老中首座となっていたため、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」との考えのもと、自ら離れていったとする説もある[3]

一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。

慶長11年(1606年)5月14日に館林にて死去。徳川秀忠は病床にある康政を見舞うため、医師や家臣を派したが、薬石効なく59歳で没した。長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は3男の康勝が継いだ。大正4年(1915年11月9日、贈正四位。

人物・逸話

功績

  • 武備神木抄』では、康政は武勇では忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている。同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記されている。
  • 秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて近江国の瀬田まで進軍した。これは示威行動であるが、実際の兵力は3,000人ほどだった。ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている[4]
  • 三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の3男・信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された[5]

幕府時代

  • 関ヶ原のあと、家康はこれまでの功績を賞して水戸藩25万石を与えようとしたが、康政は関ヶ原で武功が無かったとして辞退した(『名将言行録』)[6]
  • 家康は関ヶ原の後、康政を秀忠付の老中に任命され、前述のとおり加増の話もあったが、康政は「老臣が権を得るのは亡国の兆しである」として、加増を断り領国へ帰っている。本多正信が引き止めたが、及ばなかった[7]

その他

  • 隊旗には「無」の一字を配した。所用の「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、現在は重要文化財東京国立博物館の所蔵(e国宝に画像と解説あり(外部リンク))。
  • 本多忠勝とは同年齢であったことから仲が良く、親友関係にあったという。
  • 家康の嫡男・松平信康は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため康政は信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して康政を弓で射殺しようとした。だが康政は少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った(『名将言行録』)[8]

子孫

ファイル:Keep tower of Takada Castle 20130320, 002.jpg
越後高田城三重櫓(新潟県上越市)
  • 康政の死後、家督は3男の康勝が継いだが、康勝は大坂夏の陣後、26歳の若さで継嗣無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は康政の功績を評価して、長男・大須賀忠政の長男で康政の孫・榊原忠次に跡を継ぐことを許している。後に忠次は播磨姫路藩15万石に栄転した。
  • 榊原忠次が跡を継いだ際、康勝の庶子が実際には存在したが、家臣たちが「館林藩が潰れれば幕府の直臣になれる」と考え、幕府に庶子の存在を届けなかった。後で庶子の存在が発覚し、家臣は処罰された[9]。詳細は榊原康勝の項参照。なお、康勝の庶子の子孫が江戸町奉行に昇進した榊原忠之である。
  • 兄・清政の家系は1,800石の幕府の旗本となり、駿河久能山東照宮の門番となった。
  • 江戸時代中期の榊原家の当主・榊原政岑徳川宗春の同志として、江戸の公認売春地区であった吉原に通い詰め、女郎を身請けして、派手を好んでいた。この所業は、倹約令を出していた8代将軍徳川吉宗の逆鱗に触れ、榊原家の危機となったときに、家康が康政に下していた神誓証文を、幕府に差し出し嘆願したところ、表高は同じ15万石で、越後高田藩に懲罰的移封処分という軽いお咎めで済んだという効果があった。

墓所・霊廟・神社

ファイル:SakakibaraYasumasaTomb.JPG
榊原康政の墓 善導寺(館林)

その他

  • 昭和60年(1985年)から榊原康政にゆかりのある4つの市による「榊原サミット」が持ち回りで開催されている。4つの市は、康政が生まれた愛知県豊田市、康政が没した群馬県館林市、榊原家が城主を務めた兵庫県姫路市と新潟県上越市
ファイル:Sakaki-jinja, Joetsu.jpg
越後高田藩主・榊原家を祀る「榊神社(さかきじんじゃ)」[新潟県上越市]

参考文献

  • 山鹿素行『武家事紀』
  • 新井白石、白石社校訂『藩翰譜』吉川弘文館
  • 岡谷繁実『名将言行録』

以上三種は国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』の電子テキストを用いた。

  • 村山和夫『無を貫いた不退転の猛将 榊原康政』(学習研究社『歴史群像シリーズ 徳川四天王』所収論考)1991年
  • 「榊原康政と榊原家一族(特集 徳川四天王) ― (徳川四天王の一族と系譜)」 『歴史読本:第52巻3号(通号811号)』新人物往来社 2007年3月所収
  • 平野明夫「榊原康政の全生涯--多くの合戦で武功を立て家康・秀忠に信頼された硬骨の武将(特集 徳川四天王) ― (特集ワイド 徳川四天王の全生涯)」『歴史読本:第52巻3号(通号811号)』新人物往来社 2007年3月所収

関連作品

小説
  • 菊池道人「榊原康政:家康を支えた知勇兼備の武将」PHP研究所 2001年12月 ISBN 4569576621
テレビドラマ

脚注

  1. 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号。
  2. 山鹿素行『武家事紀』第15、榊原康政の条。隆慶一郎ら、通俗的な時代小説でよく用いられる説。
  3. 岡谷繁実『名将言行録』。村山和夫『無を貫いた不退転の猛将 榊原康政』(学習研究社『歴史群像シリーズ 徳川四天王』所収論考)1991もこの説を取る。
  4. 新井白石『藩翰譜』、岡谷繁実『名将言行録』、村山1991
  5. 岡谷『名将言行録』。通俗的な小説では秀吉非難の文言は別人の代作だとするが、特に根拠はない。
  6. 岡谷『名将言行録』
  7. 岡谷『名将言行録』
  8. 岡谷『名将言行録』
  9. 新井白石『藩翰譜』


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