東郷茂徳

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の政治家
東郷茂徳
とうごう しげのり
東郷茂徳
東郷茂徳
生年月日 1882年12月10日
出生地 鹿児島県苗代川
没年月日 1950年7月23日(1950-1882)+((7-12)*100+(23-10)>=0)-1歳没)
死没地 東京都
出身校 東京帝国大学
前職
現職
所属政党
所属委員会
議員会館
選挙区
当選回数
元首
称号・勲章
世襲の有無
親族
配偶者 東郷エヂ
サイン [[画像:|128px|サイン]]
公式サイト [ ]
日本の旗 日本 第71代 外務大臣
内閣 鈴木貫太郎内閣
就任期間 1945年4月9日
日本の旗 日本 第65代 外務大臣
内閣 東條内閣
就任期間 1941年10月18日
日本の旗 日本 第4代 大東亜大臣
内閣 鈴木貫太郎内閣
就任期間 1945年4月9日
日本の旗 日本 第21代 拓務大臣
内閣 東條内閣
就任期間 1941年10月18日
日本の旗 日本 貴族院議員
内閣
就任期間 1942年9月1日
その他の職歴
テンプレート

東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年明治15年)12月10日 - 1950年昭和25年)7月23日)は日本外交官政治家太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本外務大臣

欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相であったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。

東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者であったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える(ノモンハン事件の解決などで軍部から高く評価される一方で、開戦終戦を巡るやりとりでは吉田茂らいわゆる「和平派」から批判を浴びている)。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

東郷茂徳は豊臣秀吉朝鮮出兵の際に島津義弘が連れかえった朝鮮人陶工の子孫である。陶工達が集められた「苗代川」と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。父、朴寿勝は優れた陶工であり、横浜神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。明治19年(1886年)には士族株を購入、東郷姓に改めている[1]。なお元帥海軍大将東郷平八郎とは血縁関係は無い。

旧制の第七高等学校造士館(のち鹿児島大学)に進学。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友であった。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は東京帝国大学(のち東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師である片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でありドイツ文学者である登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。

1905年(明治38年)5月、大学の文芸雑誌『帝国大学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと)を題材とした文芸批評が掲載された。これは東郷の唯一の文芸批評である。

二度のドイツ赴任[編集]

初めは登張の影響でドイツ文学者を志していたが、1912年(大正元年)に外務省に入省。

1919年(大正8年) - 1921年(大正10年)に対独使節団の一員としてベルリンに東郷が赴任した。このときドイツは、第一次世界大戦敗戦後に成立したワイマール共和国下での、カップ一揆が勃発するなどの混乱期にあったが、日独関係は比較的安定した状態にあった。また、東郷はこの赴任時にドイツ人エディ・ド・ラロンド(建築家ゲオルグ・デ・ラランデの未亡人)と出会い、恋仲となる。ドイツから帰国後、反対する両親を説得して、1922年帝国ホテルで挙式した。

その後、1937年(昭和13年) - 1938年(昭和14年)に駐独大使となったが、この際にはナチスが勃興しており、状況は一変していた。対外的にはオーストリア、チェコスロバキアなどへ侵攻しつつある状態にあり、ドイツ国内的にはベルリンのシナゴーグがナチスによって焼き討ちされるなど、ユダヤ人迫害が顕在化しつつあった。元々ドイツ文学に深く傾倒し、ドイツ文化に深い理解があった東郷はナチスへの嫌悪を感じざるを得ず、ナチスと手を結びたい陸軍の意向を受けていたベルリン駐在陸軍武官大島浩や、日本と手を結びたいナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと利害が対立し、駐独大使を罷免される。

日ソ中立条約の交渉[編集]

1938年(昭和13年)に東郷は駐ソ大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対するヴャチェスラフ・モロトフソビエト外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちにお互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化するアメリカとの関係改善、および泥沼化する日中戦争の打開のため、日本側はソビエトの蒋介石政権への援助停止、ロシア側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。

しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。松岡は暗に東郷の外務省退職を求めるが、東郷は逆に懲戒免職を求めて相手にしようとはしなかった。

なお、その後に松岡が締結した日ソ中立条約は、日独伊三国同盟が成立してしまっていたこと、北部仏印進駐によってアメリカの対日経済制裁が強まってしまっていたこと、ソ連とナチスドイツとの関係が悪化したことなどによって、当初東郷が意図していたようなアメリカとの関係改善には繋がらなかった。結果としてソ連がナチスドイツの侵攻に備えるための意味と日本の大陸での南進への間接的な援護との意味しか持たないものとなった。加えて、日本側の北樺太権益の放棄もない代わりに、ソ連側の蒋介石政権への援助停止も盛り込まれない内容となってしまったことにより、東郷には不満が残る結果となった。

ちなみに外相経験もある元老西園寺公望が、死の床で松岡によって東郷が駐ソ連大使を更迭されて、外務省から追われそうだという風説を聞いて、深く慨嘆したと言われている。

開戦回避交渉[編集]

1941年(昭和16年)に東條内閣に外務大臣として入閣した東郷は、日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、統帥部の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。

このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。

その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任であると考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけであると考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。

真珠湾攻撃へ[編集]

1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、昭和天皇から東條英機首相に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があった。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。

このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、開戦の効果を大きくするために交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針であった海軍側との交渉を開始。山本五十六連合艦隊司令長官も上京し、「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したことなどから海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。しかし、駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際によって、当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となる大失態となった。また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(交渉打ち切り)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段を避けて行われていた。

真珠湾攻撃が、アメリカ側からは「卑劣極まりない奇襲」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。しかし、法廷において東郷は、海軍は無通告で攻撃しようとしたことを強調し、軍に責任を擦り付けようとしていると反感を呼んだ。

東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動であったと見るのが一般的であるが、一部には「外務省の省益を守っただけではないのか」という批判も無いわけではない。

終戦交渉[編集]

1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落にともない、日本の敗戦が不可避だということを悟り、世界の敗戦史の研究を始めた。獄中で認めた手記『時代の一面』には「日本の天皇制は如何なる場合にも擁護しなくてはならない。敗戦により受ける刑罰は致し方ないが、その程度が問題である。致命的条件を課せられないことが必要であり、従って国力が全然消耗されない間に終戦を必要と考えた」と記している。

1945年(昭和20年)に、「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交は凡てあなたの考えで動かしてほしいとの話であった」(『時代の一面』より)ということから、鈴木貫太郎内閣に外務大臣として入閣した東郷は、昭和天皇の意を受け終戦交渉を探った。当時、ヨーロッパでは既にドイツの敗北が必至の情勢まで悪化しており、アメリカが太平洋戦争へ戦力をさらに投入してくることや、ソ連が攻めてくる可能性があるなど、猶予のない状況となっていた。

このため、東郷は、当時はまだ完全に連合国側に組している訳ではなかったソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案し、広田弘毅マリク駐日ソ連大使との会談や、特使近衛文麿のソ連派遣打診などを行う。しかし当時ソ連は既にヤルタ会談によって対日参戦を決定しており、交渉をポツダム宣言発出以降も引き延ばされ、ソ連の対日参戦という結果となった。

アメリカの広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日参戦という絶望的な状況変化に伴い、東郷はポツダム宣言受諾を主張。その際、受諾の為に日本側から申し入れる条件は「皇室の御安泰」のみにすべきと提案したが、陸軍は武装解除を自ら行う、戦後日本本土に上陸する連合国の将兵らの人数は最小限に、その駐留期間も短期間に止める、戦争犯罪人は国内で処理する、連合国による保障占領は行わない等の条件も盛り込むべきと主張したため、両者の言い分は平行線を辿った。そこで、天皇の御聖断を仰いだ結果、東郷案が認められた。

しかし、アメリカ側による「バーンズ回答」は、天皇の地位は守られると解釈できる内容だったが、天皇が連合国最高司令官の権限に従属すること、そして日本政府の形態を日本国民の意思により決定すること、という項目もあった。このことから当初は、阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎陸軍大将など本土決戦を求める陸軍側のみならず、内閣の面々からも反発の声が挙がった。一部の陸軍強硬派がクーデターを企てるなど不穏な情勢になるのを懸命に抑えていた部分もあったため、東郷はこうした陸軍上層部の人々の置かれている状況に配慮しつつ、粘り強く説得した。

その後、昭和天皇が二度目の御聖断として東郷支持を表明したことにより、陸軍の一部強硬派も折れ、終戦を迎えた。

極東国際軍事裁判[編集]

戦争終結後、東郷は東久邇宮内閣に外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼を断り、妻と娘のいる軽井沢の別荘に隠遁した。しかし、「真珠湾の騙し討ちの責任者」という疑惑を連合国側からかけられて、9月11日に東條元首相とともに真っ先に訴追対象者として名前が挙げられた。終戦の翌年である1946年5月1日に巣鴨拘置所に拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。

弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初の外務大臣時代の外務次官であった西春彦(後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ・山岡らが付き、娘婿の東郷文彦が事務を担当した。

裁判は1947年(昭和22年)12月15日に東郷の個人反証に入った。この日「電光影裏、春風を斬る」とその心境を色紙にしたためて望んでいる。検事側と東郷・弁護人らの激しい応酬が繰り広げられた。特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎海軍大臣とのやり取り(開戦の時の証言で「摺り合せを要求された」と東郷が受け取った件)について紛糾して当時の話題となった。開戦時及び終戦時に外相の地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃を主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求を国際法の要求する究極の限界まで食い止めることに成功した。余は余の責任をいささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない。」と、如何に軍国主義者と対立してきたかを、口述書に述べた。これに対して、永野修身の担当弁護人であるジョン・G・ブラナンが、海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか、と東郷に質問した。すると、「裁判が開廷してから、嶋田と永野から、海軍が奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ」と脅迫を受けたかのような証言をした。この発言を「海軍の名誉に関する重大事」と判断した嶋田は、証言台において「よほど彼の心中にやましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈。」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段を使った。すなわち、イカのスミを出して逃げる方法を使ったと。すなわち言葉を変えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉を使って逃げたと。」と反論した。東郷個人としては、昭和において自分が体験・経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身の行動が連合国側の指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、決して悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解が異なる事も決して少なくなく、また個人よりも集団を重視する日本社会では異質であって、嶋田の弁護人であった法制史学者の瀧川政次郎を始め、被告人・弁護人達の批判の対象となった。

それ以外にも、木戸幸一が天皇が和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べた。特に梅津とは声を荒げてやり合う場面も見せ、木戸に対しても、木戸の担当弁護人であるウィリアム・ローガンが尋問を開始しても発言を止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸を好かないのでしょう」と言う場面もあった。

このように、結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの」と歌に詠んで痛烈に批判している(ただし、東郷と重光は在官中から個人的確執があったとされている)。

1948年(昭和23年)11月4日、裁判所は東郷の行為を「欧亜局長時代から戦争への共同謀議に参画して、外交交渉の面で戦争開始を助けて欺瞞工作を行って、開戦後も職に留まって戦争遂行に尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年の判決を下された(刑としては重光に次いで軽い)。

東郷は後に「法の遡及」を行い、「敗戦国を戦勝国が裁く」というこの裁判を強く批判する一方で、国際社会が法的枠組みによって戦争を回避する仕組みの必要性があり、新しい憲法第9条がその流れに結びつく第一歩になることへの期待を吐露している。だが、皮肉にも1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条の精神を尊重することを重視して軍事的な同盟では平和が齎されないと考える西春彦石黒忠篤(東郷の親友、当時参議院議員)らと交渉の担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂は欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦が著書で暗に西を非難するという、東郷の遺志を継ぎたいと願う人達が対立するという不幸な事態も発生している。

東郷は以前から文明史の著書を執筆して戦争がいかにして発生するのかを解明したいという考えを抱いていたが、心臓病の悪化と獄中生活のためにこれを断念し、替わりに後日の文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録の執筆を獄中で行い、『時代の一面』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状が悪化、転院先の米陸軍第361病院(現同愛記念病院)で病死した。

年譜[編集]

家族[編集]

夫人はドイツ人のエディ・ド・ラロンド(婚約後に「東郷エヂ」と改名)である。

外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦、元オランダ大使・外務省欧亜局長の東郷和彦は双子の孫。

著作[編集]

東郷茂徳を演じた人物[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]

先代:
豊田貞次郎
鈴木貫太郎
外務大臣
第65代:1941 - 1942
第71代:1945
次代:
東條英機
重光葵
先代:
豊田貞次郎
拓務大臣(兼任)
第21代:1941
次代:
井野碩哉
先代:
鈴木貫太郎
大東亜大臣(兼任)
第4代:1945
次代:
重光葵
歴代の外務大臣
外務大臣(太政官達第69号)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号))
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -

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吉田茂
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号))
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外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦
極東国際軍事裁判A級戦犯
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