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'''拾ヶ堰'''(じっかせぎ)は、[[安曇野]]を流れる[[灌漑]]用に作られた[[用水路]]([[堰 (安曇野)|堰]])である。この堰は、[[奈良井川]]([[松本市]]島内)から取水し、[[梓川]]を横断し、更に大屈曲しながら、[[烏川 (長野県)|烏川]]([[安曇野市]]穂高)にいたる約12kmの用水路で、安曇野における最も大規模な用水路である。[[疏水百選]]にも選ばれている。
  
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江戸時代の成相町村・吉野村・新田町村(以上、安曇野市豊科)、上堀金村・下堀金村(以上、安曇野市堀金)、柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村(以上、安曇野市穂高)の諸村を灌漑する旧拾ヶ村の組合堰である。
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== 歴史 ==
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* 1816(文化13)年:3月から6月にかけて開削
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* 1817(文化14)年:拾ヶ堰が開削される。
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==開削功労者==
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;計画・測量
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:中島輪兵衛(柏原村元庄屋)
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:平倉六郎右衛門 (下堀金村)
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;実務担当・協力
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:等々力孫右衛門(保高組大庄屋)
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:等々力孫一郎(保高組大庄屋(孫右衛門の養子))
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:岡村勘兵衛(吉野村庄屋)
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:白澤民右衛門(等々力町村庄屋)
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:関与一右衛門(柏原村庄屋)
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==主な灌漑地域==
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穂高本郷・柏原全域・上堀・下堀
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==特徴==
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*拾ヶ堰は標高570mの等高線に沿って流がれる横堰(よこせぎ)である。奈良井川の取水口から終点の烏川までの傾斜は約3[[パーミル]]で標高差はわずか約5m。水がゆっくりと流れるのが横堰の特徴で、押水(おしみず)という。
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*同じ標高を通すため、[[水準器]](開発当時は、木製の素朴なものであった)による測量で開削された。
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*拾ヶ堰に架かる橋を見ると「十ヶ堰」と書かれているところもある。また、「拾箇堰」、「十箇堰」などと表記する場合もある。
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*逆[[サイフォン]]により、[[ラーラ松本]]付近で[[梓川]]の下を潜っている。昔は梓川を横堀で横断していたが、悪天候などで度々流されることもしばしばあった。大正時代、サイフォンが梓川に埋められ、現在のサイフォンが整備されたのは平成のことである。
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== 川沿の自治体 ==
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*[[松本市]]
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*[[安曇野市]]
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==外部リンク==
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*[http://www.inakajin.or.jp/sosui/about/index.html 疏水百選(新・田舎人フォーラム)]
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*[http://www.pref.nagano.jp/nousei/nochi/sosui/sosui03.htm 長野県の疏水百選 拾ケ堰(安曇野市)]
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*[http://suido-ishizue.jp/nihon/06/index.html 安曇野水土記―水土の礎]
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==関連項目==
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*[[疏水百選]]
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*[[長野県道441号穂高松本塩尻自転車道線]](あづみ野やまびこ自転車道)
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2024年2月10日 (土) 22:58時点における最新版

拾ヶ堰(じっかせぎ)は、安曇野を流れる灌漑用に作られた用水路)である。この堰は、奈良井川松本市島内)から取水し、梓川を横断し、更に大屈曲しながら、烏川安曇野市穂高)にいたる約12kmの用水路で、安曇野における最も大規模な用水路である。疏水百選にも選ばれている。

安曇野は、扇状地であるため地下に水がしみ込んでしまう乏水地域である。そのため安曇野は古くから農業用水に恵まれず、柏原村、吉野村の庄屋などが拾ヶ堰の開削を計画ししたものである。

江戸時代の成相町村・吉野村・新田町村(以上、安曇野市豊科)、上堀金村・下堀金村(以上、安曇野市堀金)、柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村(以上、安曇野市穂高)の諸村を灌漑する旧拾ヶ村の組合堰である。

歴史[編集]

  • 1816(文化13)年:3月から6月にかけて開削
  • 1817(文化14)年:拾ヶ堰が開削される。

開削功労者[編集]

計画・測量
中島輪兵衛(柏原村元庄屋)
平倉六郎右衛門 (下堀金村)
実務担当・協力
等々力孫右衛門(保高組大庄屋)
等々力孫一郎(保高組大庄屋(孫右衛門の養子))
岡村勘兵衛(吉野村庄屋)
白澤民右衛門(等々力町村庄屋)
関与一右衛門(柏原村庄屋)

主な灌漑地域[編集]

穂高本郷・柏原全域・上堀・下堀

特徴[編集]

  • 拾ヶ堰は標高570mの等高線に沿って流がれる横堰(よこせぎ)である。奈良井川の取水口から終点の烏川までの傾斜は約3パーミルで標高差はわずか約5m。水がゆっくりと流れるのが横堰の特徴で、押水(おしみず)という。
  • 同じ標高を通すため、水準器(開発当時は、木製の素朴なものであった)による測量で開削された。
  • 拾ヶ堰に架かる橋を見ると「十ヶ堰」と書かれているところもある。また、「拾箇堰」、「十箇堰」などと表記する場合もある。
  • サイフォンにより、ラーラ松本付近で梓川の下を潜っている。昔は梓川を横堀で横断していたが、悪天候などで度々流されることもしばしばあった。大正時代、サイフォンが梓川に埋められ、現在のサイフォンが整備されたのは平成のことである。

川沿の自治体[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]

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