慰安所

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慰安所(いあんじょ)とは、軍隊や政府組織が軍人や軍属のために民間業者が設立して軍政が経営を監督及び監査した娯楽施設のことを言う。軍慰安所軍隊慰安所とも。慰安所で性労働を行った女性については慰安婦を参照。

軍隊慰安所の前史

国家による管理売春公娼制度という。公娼制は古代ギリシアやローマ帝国にもすでに存在した。十字軍遠征では「売春婦部隊。」・「従軍売春婦」が従軍した。

古代中国にも妓女制度などが存在し、また被征服者の女性が強制連行され性奴隷になるケースも多く、金王朝に破れた北宋の美女は洗衣院という場所に収容された。

また朝鮮にも妓生制度があり歌舞のほか性的奉仕も担った。妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した。また妓生は中国に貢女(コンニョ)つまり貢ぎ物として「輸出」された。高麗時代にはの使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。これは日本人倭人)に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている。朝鮮の外交における使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」といわれる。

16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている。

近代公娼制と軍隊慰安所

近代公娼制はフランスで確立し、その後、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国、日本に導入された。

設置目的

藤目ゆきによれば、近代公娼制度は「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」である。藤目はフランスを「公娼制度の祖国」と評している。

秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノー娘子軍と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした。1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている。

フランス軍慰安所

19世紀初頭の1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった。16世紀に梅毒が流行したが18世紀末にも梅毒流行が再燃し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがった。

移動慰安所(BMC)

フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際に存在した。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ、ほかアルジェリアチュニジアにも存在した。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している。

イギリス軍慰安所

イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された。

植民地の慰安所

1870年代になってジョセフィン・バトラーらの売春婦救済運動(廃娼運動)が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦、ヒックス、藤目ゆき)。

イギリスは1921年の婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった。秦郁彦も、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している。

植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している。

植民地インドのイギリス軍慰安所

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた。売春婦登録簿は1888年まで記録されている。

第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。

アメリカ軍慰安所

アメリカの公娼制

アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入され、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた。しかし、同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からは純潔十字軍が社会浄化運動を行い、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした。またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し、さらに中国人娼婦を口実に1882年に中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された。1910年のマン法では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯(売買春)地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった。

植民地フィリピンの慰安所

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した。米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した。当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持しており、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていたため、植民地での売春宿・慰安所についての反対運動は後退した。こうしたことを背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランも推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない。

米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した。

ドイツ軍慰安所

ドイツ軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あった。ドイツ政府は「人道に対する罪時効はない」と宣言し、様々な戦後補償を行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった。しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった。また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『諸君!』で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損 ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った。

ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿 (Bordell) は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった。ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止し、民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置いた。

なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる。

2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春 (Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドウクライナの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。

強制収容所のなかの慰安所

強制収容所での囚人用売春施設についてはオイゲン・コゴンの『親衛隊国家』、ヘルマン・ラングバインの『アウシュヴィッツの人間』でも知られていたが、戦後英雄視された政治犯も当時囚人であったためタブー視され研究されることがなかったが、2009年にロベルト・ゾンマー(Robert Sommer)が『Das KZ-Bordell:Sexuelle Zwangsarbeit in nationalsozialistischen. (強制収容所の売春施設:ナチス強制収容所での性的強制労働』(Paderborn)を発表した。

ゾンマーによれば、この強制売春施設はハインリッヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想された。ゲシュタポは1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設した。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった。被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった。食料は親衛隊員待遇で豊富であった。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた。

台湾(中華民国国防部)の慰安所

正式名「軍中特約茶店」。「軍中楽園」「831」とも呼ばれる。1950年代より営業開始。台湾本島では1974年に廃止。金門島では1990年代の初めまで存在した。軍妓(慰安婦)の中には、意に反して働いていた女性や、未成年者も含まれていたと言われる。

ロシア(軍)における慰安所導入計画

ロシアでは、第一次世界大戦の頃から、軍用売春宿(慰安所)の導入が検討されていた。ロシア帝国ロシア臨時政府がそれぞれ別個に各々の陸軍の為に検討していた。モデルとなったのは、当時のドイツ軍の軍用売春宿(慰安所)であった。ボリシェビキも同様の検討を行っていた。ロシア軍はブルシーロフ攻勢後ドイツ軍の慰安所を複数個所手に入れ、コサック兵たちの利用が黙認されていた。 戦争が塹壕戦に入ると、前線のあちこちに売春宿が乱立するようになり、ロシア臨時政府はこれらの合法化を考えた。臨時政府の外務大臣であったパーヴェル・ミリュコーフによれば、目的は兵士のモラルの向上と、臨時政府に対する不満の捌け口となるはずだった。彼の提案は陽の目を見なかったが、ペトログラード・ソビエトEnglish版に引き継がれ、1917年、ペトログラード・ソビエトは、兵士達の住民に対する暴力の抑止になると期待して再検討に着手した。しかし、この計画も内戦の勃発により実現しなかった。

日本軍の慰安所

日本政府によれば、慰安所の開設は軍の要請により、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置された。

クマラスワミ報告によれば、日本陸軍の上海派遣軍参謀副長の岡村寧次によって創設された。慰安婦の募集は、多くが業者によっておこなわれ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与したと考えられている。90年代に入り、韓国挺身隊問題対策協議会日本弁護士連合会戸塚悦朗が国連に日本軍性奴隷問題として問題提起してから国際的に注目され研究者の間では、日本軍の慰安所を、当時の遊里(遊郭)と変わらないという見解(秦郁彦らと、奴隷状態に置かれた慰安婦が強制的に売春させられていたという見解(吉見義明らがある。2009年になると、欧米の研究者の間からも、慰安婦は当時の公娼と変わらず、慰安所を強姦所などと呼ぶ事に反対する意見が出てきた。韓国政府は、ウェブサイト上で、日本軍の慰安所を、女性が強引に閉じ込められ性的に搾取された場所と解説し、ここで慰安婦は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けたとしている。


  • 軍人は俗に「ピー屋(ピーは中国語での売春婦の蔑称)」と呼ぶことが多かった。
商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎の記憶では、1939年、「漢口特殊慰安所」という看板が掲げられていたという。
海外娼婦の前身の呼び名としては、料理店の酌婦、また娘子軍(海外渡航娼婦=からゆきさん)という言い方もあった。
慰安所や慰安という用語の使用例は、米軍占領軍相手に強姦事件を防ぐ目的で設立された公的な売春組織=特殊慰安施設協会朝鮮戦争における韓国の慰安所、戦時中に朝鮮労働者向けに企業が設置した「産業慰安所」、などがある。
  • 料金

金子安次によると慰安料金は1円50銭くらい(当時の一等兵の月給は8円80銭くらい)だったとしている。一方、慰安婦には給与が無い場合が多かったとしている。

設置の背景:中国の公娼と私娼

吉見義明によれば、当時中国では売春が禁止されており、匪賊(ゲリラ、盗賊)でさえ他の略奪などに比べ、強姦することは稀だった(都市部では不明。婦女誘拐や人身売買は別)。他方で1937年7月29日に発生した通州事件では冀東防共自治政府保安隊によって日本人約260名が虐殺された際、多数の女性が強姦殺害され、陰部にほうきを刺された女性の遺体もあった。また1945年8月13日の小山克事件

上海の多くを占めるようになっていた租界では、イギリスフランスが公娼制を行ったので中国の私娼が集まり、1930年統計では、中国人2万余り、朝鮮人千人余り、日本人700人余りとあり、そのほとんどが私娼となっている。(日本では、 1920年に外地の日本人娼婦である「からゆきさん」が廃止。 朝鮮では、1920年代に年間3万人の私娼が朝鮮で売り買いされ、1920年代半ばには外地に売られたのが年に5000人、8割が騙されてだという。 1930年頃の朝鮮内の公娼は、日本人と朝鮮人それぞれ4、5千人程度とされる。1937年、日本内地では、芸妓を含めて21万人)。

1929年に中国の国民政府国家主席である蒋介石が上海の公娼廃止を行った。前述の1930年の統計では私娼が圧倒的多数である。

設置経緯

当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、軍直営ではないが軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた。

1941年の太平洋戦争開始に伴い太平洋地域へ拡大したと考えられている。

1932年、第一次上海事変が起きる。その事変の直後に日本兵の強姦事件が頻発し、その防止のために慰安所が設けられたといわれる。また性病防止の目的も大きかったとされる。この時期は民間による民間客と兼用の慰安所・風俗売春店が多い。この時期、長崎の女性達がだまされたまま、帰りの旅費がないためにそのまま就業したという事件が起きている。

<本格的設置の始まり>

1937年末、上海事変から南京攻略を終えたときまでの日本軍に強姦が多く発生した。当時の中国には'紅槍会という地方農民の自衛団があり、その特徴として、「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち死を持って報復せるを常しあり」 ということが1937年10月6日に方面軍から通達が回っている。 中国人の対日感情が悪化し治安が低下することに直面した日本軍が、日本軍専属の慰安所を設置することにして、年末から年初には業者が日本・朝鮮などを回っていた。

  • <警察・軍・領事>

このときの募集では、地方警察に無連絡であり、国内法と常識からは大きくはずれる点が多く誘拐と疑わしく、警察とのトラブルが生じた。

1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取扱に関する件」と題する通達では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解しているといって回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、また社会問題が起きないように、軍の名前を出させないようにするために、広告を禁じている(この年齢制限は内地以外は適用外であり、朝鮮・台湾の公娼は17歳以上であったが、占領地ではそれも適用外であった)。これを受けた3月に、陸軍省から華中派遣軍に対して社会問題にならぬようにとの指示が作られている。

1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった。

朝鮮の募集においては、下請け業者が多かったと推測されている。

兵団とともに移動することも多く、辺境での末端部隊では、私的に慰安所を設置したり、巡回慰安婦という形も生じた。

太平洋戦争期の戦地では、(満州を戦地でないとして)100万以上の陸軍兵士・軍属に対して、約1.2万/年の罹患者であり、終戦時の連合軍の調査では、南西太平洋地域では日本軍の罹患率はきわめて低いとしている。

軍の関与

吉見義明は警察資料、拓務省・内務省の資料の一部、従軍日誌や軍の業務日誌類、法務省・外務省の戦犯裁判資料、厚生省の復員・援護関係資料などが非公開なので事実究明に制約があると主張している。。政府は河野談話で慰安所の設置に軍が関与していたことを公式に認め、政府の調査報告書にも明記された。 吉見義明は以下の例を挙げている。

  • 1932年3月:上海派遣軍は上海で慰安所を作った、岡村寧次上海派遣軍参謀副長や岡部直三郎高級参謀が慰安所を作る指示を出し、永見俊徳参謀が設置を行った。
  • 1937年12月:中支那方面軍は慰安所設置の指示を出した。これを受けた上海派遣軍では参謀第二課が案を作成、長勇参謀が設置を担当した。
  • 1937年12月:第十軍参謀寺田雅雄中佐は憲兵を指揮して湖州に慰安所を設置した。
  • 1938年6月:北支那方面軍の参謀岡部直三郎中将は、指揮下の区部隊に慰安所の設置を指示を出している。
  • 1938年11月:第21軍は慰安所を作るため参謀久文有文少佐を日本に派遣。久文少佐は陸軍省人事局の小松光彦大佐と共に内務省警保局長に対して「慰安婦」を募集するように要請。また第21軍は台湾総督府に対して「慰安婦」を募集するよう要請。これを受けて内務省は400名の台湾総督府は300名の慰安婦を集め広東省に送り出した
  • 千田夏光が自著『従軍慰安婦』(1978年)において、 1941年7月:関東軍は2万人の朝鮮人「慰安婦」を徴募しようと計画、原善四郎参謀は朝鮮総督府に依頼して八千人の朝鮮人慰安婦を集め満州に送ったと書いており、最初は原から直接聞いたとしていたが、後に、『関東軍』(中公新書、1965年)(島田俊彦 『関東軍―在満陸軍の独走』 講談社学術文庫, 2005/06 ISBN 978-4061597143)が出処原典とした。しかし、その書には人物や数字は存在しないという。

海軍:1939年:海南島の海軍部隊のため慰安所設置を計画、海軍第4根拠地隊司令部が台湾総督府海軍武官に特要員(慰安婦のこと)50名の徴募を要請。台湾総督府の武官からは特要員50人を送るという伝歩がきた[1]

ただし、秦郁彦は、軍の関与については当初から研究者の間でも異論はなく、映画などのたぐいも多く軍が関与していないと思う人の方が珍しかったろうとし、政府が「国としての関与を認めてこなかった」と報じた1992年1月11日の朝日新聞の報道を批判している[2]テンプレート:rp

日本軍慰安婦の募集方法

現在までの研究では、朝鮮、台湾などの地域では民間業者による甘言、就業詐欺が多いと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による強制連行との証言が多い[3]。朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが暴力的な強制連行との証言も報告されている。十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在する[4]

日本国内では、1938年2月23日の内務省発警第五号の「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件[5]により、慰安婦は、日本国内で事実上醜業(売春)を営み、満21歳以上の伝染病なき者に募集を限定し、身分証明書を発給していたことが伺える。また、発給の際には本人自らが警察署に出頭すること、親または戸主の承認を得ること、婦女売買や略取誘拐などの無きよう調査すること、正規の許可などの無い募集周旋は認めない事などが取り決められていた。

醜業条約では「未成年に対しての勧誘」などを禁じていたが、日本は、台湾や朝鮮など植民地に適用されないという、解釈宣言を行っていた。(なお条約と別に、公娼の年齢制限は、朝鮮・台湾で17歳、内地で18歳以上であった。永井和 「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」

運営

  • 管理:慰安所の管理は民間業者が行い、女性の世話は日本人や朝鮮人女性が行った。
  • 慰安婦の自由:休日は無しか、月1回。朝鮮人慰安婦の証言によると月経時も休むことは許されていない。慰安所利用規程や元慰安婦の証言から、慰安婦に廃業の自由、行動の自由はほとんどなく、また中国や東南アジアでは休日に自由があっても、交通の便のため事実上逃亡は不可能であった。
日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり、監視警備区域内に住まわせられていた。漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、前に歩哨と憲兵がいたという。外出規則は地域によって違いがあったことが知られている。
  • 料金:米国戦争情報局心理作戦班報告によれば朝鮮人慰安婦のケースでは兵士で1.5円、将校が5円であった。。マニラでは(民間慰安所では10~20円、軍専属の方は2~3円)民間の慰安所の方が好まれていたという。[6],p487
  • 報酬:文玉珠のように金銭目的で慰安所に入った場合でも経営者は小遣い程度しか払わず、帰国時に払うとして終戦時にはそのまま逃亡している場合もある[7]文玉珠は、26,145円の貯金をし、5,000円を実家に送金したと裁判で証言しているが、これは性の代償ではない。裁判を取材した上野千鶴子によると、このお金は「労働」の代償ではなく軍人からの小遣いをためたものであるという[8]
  • 労働:日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に数が少ないことなどから、少ないときで10人程度、多い場合は1日数10人が1人の慰安婦に詰めかける状況が生まれている[9]李英淑は回想している[10]
「私は軍人を相手にすると何度も性器がパンパンに腫れ上がりました。そうなったら病院に行くのですが下腹が張り裂けんばかりに痛みました。(中略)私は何度も性器が腫れて1年に3、4回は入院しました」。
  • 暴行:証言したほとんどの慰安婦が未成年で、自分の意志で慰安所に来たものではないため起きた状態であろうと尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦)は推定している要ページ番号
  • 公娼との違い:吉見義明は慰安婦は就業詐欺など違法行為による強制的な徴集、より厳しい行動の制限、多く見られる兵士による暴力など、むき出しの奴隷的制度であるとしている。
秦郁彦は慰安婦は公娼より報酬の条件がいい一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。
からゆきの労働環境については、脚註参照

1943年のマンダレー(中部ビルマ)の慰安所規定では、違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながると警告されている。

外出の自由については、1932年までの郭(くるわ)内の公娼(集娼制)もまた外出はできない状況にあった。マンダレーでは、経営者の証印がある他出証を携行すれば他出可能で、インドネシアのセレベス島の場合は、すべて原住民系慰安婦で休養外出自由だった。また、国内と違って占領地の軍隊専属のために、 休日だけでなく部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差が大きい
開設当初は環境的にも契約上も他人が借金を肩代わりする中途廃業の見込みはない(半年内の早期廃業の違約金を自分が出す規則はときにはあった)、(1943年、華北で慰安婦廃業のための金を横領したとして、陸軍主計中尉が軍法会議にかけられている。
報酬が軍票(またはそれによる貯金)による支払いのために、太平洋戦争の後期に価値が下落し(日本円自体が戦前と戦後では100分に1になった)、日本軍の解体に合わせて1945-9月価値は消滅した。
日本政府の調査

1993年(平成5年)8月4日に内閣官房内閣外政審議室が発表した「いわゆる従軍慰安婦問題について」と題する調査結果によれば、

  • 存在地域:日本・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(当時)・タイ・ビルマ(当時)・ニューギニア(当時)・香港・マカオ・仏領インドシナ(当時)
  • 経営及び管理:慰安所は民間業者が慰安婦を募集し、経営も直接行っていた。民間経営の場合も旧日本軍は、慰安所の開設許可・施設整備・慰安所規定の作成、悪質業者の取り締まりや衛生管理をするなど、慰安所の経営・管理に関与していた。

GHQ占領軍慰安所

連合国軍占領下の日本内務省によってGHQ相手に設置された「慰安所」に関しては特殊慰安施設協会を参照。

韓国軍慰安所・国連軍慰安所

韓国軍慰安婦 を参照

朝鮮戦争時の韓国軍アメリカ軍などが戦地・占領地・訓練地で軍隊慰安所を設置・利用したという研究がなされている。

韓国・慶南大学校客員教授の金貴玉によると、韓国の公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」との記述があり、旧日本軍に関係した韓国軍の幹部によって設置されていたと考えられると言う。

1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される。

ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された。

  • 第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
  • 第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
  • 第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)

江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市原州市束草市などに慰安所が設置された。

慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した。

1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている。

また、朝鮮戦争後も継続して1980年代まで米兵相手の慰安所が韓国軍によって設置されていたという元慰安婦の訴えがある。

近年でも、韓国の在韓米軍基地周辺でフィリピン人女性などの外国人娼婦がジューシーバーなどで売春をおこなっており、現在進行中の人身売買であると米軍も通告するなど注意韓国を行っているが、問題解決にはいたっていない(在韓米軍慰安婦問題)。

脚註

  1. 日本海軍風流譚〈4〉―短篇逸話集 (1981年) 海軍思潮研究会)要ページ番号
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  3. 出典:慰安婦戦時性暴力の実態1&2、緑風出版 2000 要ページ番号
  4. 日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003 要ページ番号
  5. 内務省警保局警保局長「支那渡航婦女の取扱に関する件(庁府県)」昭和13年(1938年)2月18日, アジア歴史資料センター リファレンスコード A05032040800
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  7. 出典:証言未来への記憶 明石書店 2006の金冨子論考 要ページ番号
  8. 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』 青土社 1998年3月 要ページ番号
  9. 出典:証言未来への記憶 証書店 2006から金冨子の論考
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参考文献

関連項目

外部リンク