徳川義知

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徳川 義知(とくがわ よしとも、1911年5月22日 - 1992年4月14日)は、尾張徳川家の第20代当主。英国への留学歴があり、英語力を活かして父・徳川義親が関与していた1940年の対英工作や1942年の日本軍によるシンガポール占領後のマラヤスルタン統治に関与した。戦後、日英協会の理事や日本赤十字社の常任理事を務めた。

経歴

1911年5月22日、東京で、父・義親と母・正子の間に、6人きょうだいの1番目(長男)として生まれる[1]尾張徳川家の初代・義直の幼名に因んで「五郎太」と名付けられた[2]

暁星中学を卒業[3][4]。1921年-1922年にかけて、義親夫妻が1年間ヨーロッパへ旅行していた間、文京区に住んでいた八代六郎に預けられた[5]

1931年、華族の長男として成人したため、従五位に叙せられ、名を「義知」と改める。尾張徳川家の第20代。同年12月に設立された尾張徳川黎明会の副会長に就任。会長は父・義親だった。[6]

その後、2年余りの間、英国に留学[2]

1934年11月に帰国し、翌1935年8月から東京帝室博物館に研究員として勤務[7]

同年10月、松平恒雄の次女・正子と結婚[8][9]

尾張徳川家が目白に開設した啓明寮の寮長を務め、素人楽団を組織して、指揮を担当。各地から招待を受けて、演奏旅行をするなどした。[10]

1940年頃の排英運動の際には、父・義親とともに対英工作に携わり、英国駐日大使館からの情報収集などを行った[11]

1942年2月、太平洋戦争開戦時には、英語力を買われ、軍の通訳官として東南アジア(仏印?)で働いており、シンガポール占領後の同年3月に第25軍軍政顧問となった父・義親とともにマレーに入り、スルタンの統括を担当していた義親の連絡役としてジョホールのスルタンに「版籍奉献」を打診するなどした[12][13]

帰国後、1943年12月から大森に設置されていた東京俘虜収容所に勤務した[13]

  • 徳川 (2006 88,102)によると、同収容所の職員は戦後、捕虜から虐待の罪で戦犯訴追を受けることが多かったが、義知は感謝状をもらい、元捕虜と戦後も親交があったという。

戦後、1945年9月に日本赤十字社に入社し、戦地からの復員引揚げや医療福祉事業に従事[14]。赤十字社は皇后を名誉総裁とし、宮家の人物が催事に出席することも多く、義知はその接待役を務めた[14]

1946年1月、公職追放を受けて父・義親が黎明会の会長を辞職したことに伴い、同会会長に就任[15]

赤十字社のほかに、社会福祉法人・大泉旭出学園や社会福祉法人富士旭出学園の理事長も務めた[16]

1951年から日英協会の理事、1965年から死去まで同会副会長を務めた[17]

1988年頃、日本ヘラルド映画監査役[3]

晩年には日本赤十字社の常任理事となった[14]

1992年4月14日に死去、享年81[2]。遺骨は瀬戸市定光寺にある尾張徳川家の納骨堂「崇徳院」に納められた[18]

家族

妻・正子は、松平恒雄の次女[19][9]

趣味

  • 音楽が好きだったほかに、機械が好きで、音響機器や自動車に凝っていた[21]
  • 40歳を過ぎた頃から酒量が増え、同じ頃に体重も増えた[17]

栄典

付録

脚注

参考文献

  • 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192*中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、全国書誌番号:78013751
  • 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083