徳川家康

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徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日ユリウス暦1543年1月31日〉 - 元和2年4月17日グレゴリオ暦1616年6月1日・ユリウス暦1616年5月22日〉)は、日本戦国大名江戸幕府の初代征夷大将軍

本姓藤原氏次いで源氏と僭称するが、実際には加茂氏在原氏とも。家系三河国土豪 松平氏の流れにて家康の代に徳川氏に改姓する。徳川家の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。死の直前(武将としては史上4人目の)太政大臣に叙せられている。死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君家康公」、一般には「権現(様)」と呼ばれていた。

海道一の弓取

徳川家康のことを指す。出典は、塚越芳太郎(停春)『徳川家康』上巻(東京:服部書店、1909年)で確認できる。海道とは、鎌倉~京都までの道のりを指す(出典は海道記、鎌倉時代初頭に成立した)。弓取とは、国持ちの武家を指し、甲陽軍鑑品第四十に「先づ第一に国持をば弓矢取りと申」とある。塚越芳太郎(停春)『徳川家康』上巻においても本文中に、甲陽軍鑑が引用されている。本文中に、遠江の略取の次ぎに、海道一の弓取という題目が登場することから、三河国・遠江国の2か国の領有時の勢力を称していると思われる。なお、戦国時代には、複数国を領有する場合、太守という用語を使用しており、海道一の弓取は、同時代史料では確認できない。伊達政宗の奥州の太守、尼子経久の山陽山陰十一か国の太守などである。なお、今川義元を海道一の弓取と記載する資料については、その由来は不明であり、同時代史料の三河物語などには確認できない用語であり、塚越芳太郎(停春)『徳川家康』上巻を引用し、徳川家康の2か国を超えて、最盛期に、駿河、遠江、三河の3か国を領有することからの命名の可能性がある。平凡社マイペディアでは、徳川家康の項目に、海道一の弓取と記載があるが、今川義元の項目には記載がない。なお、徳川家康の領国は、関東移封以前は、駿河国、遠江国、三河国の海道沿いに加え、信濃国、甲斐国の五か国を領有しているため、今川義元の勢力圏を上回っている。

概要

小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、当代一の軍略家の一人であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作から、謀略にも長けている。このことをしめす言葉として、家康のあだ名・「狸爺」がある。ただし彼が謀略家としての本質を発揮しだしたのは秀吉の死後である。それまでは策謀の片鱗も見せず、今川義元織田信長豊臣秀吉に対して、馬鹿正直なほどの律義者を貫いた。果たしてそれが愚直さゆえによるものなのか、長年にわたる演技であったのかについては意見が分かれる所である。一説に、軍略・用兵は三方ヶ原の戦い以後に武田軍法を参考に学び、戦い前の書簡等による約定や唆しでの籠絡と取り込みは、豊臣政権成立後に秀吉の方法を学んだといわれている。

江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康は江戸幕府の始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。

略歴

戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友(事実上の臣下)として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。

豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任せられ、江戸幕府江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。

生涯

忍従の日々

三河国土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男(嫡男)として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。

2歳の時、母の父・水野忠政の死後、嫡男・水野信元(於大の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。

6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られる途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し(岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある)、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。

竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・(通称築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。この時期に今川家へ人質となっていた北条氏規と親交を結んだという。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、初陣

清洲同盟から三河国平定へ

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。西三河の諸城を攻略する。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

その後、西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発。家康は苦心の末に鎮圧に成功。岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。東三河の戸田氏西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除。三河への対応に遅れる今川氏とは宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げると、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い新田氏系統の源氏であることも公認させた。

永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った。元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。

永禄11年(1568年)、信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

武田家との戦い

家康は今川領分割に際して、武田信玄大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。

元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は遂に西上を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って目附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。

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「三方原戦役像」三方原にて武田軍に敗れたあとに描かせた肖像画

信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落する。そのような中でようやく織田方から援軍として佐久間信盛平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかの如く武田軍を転進させる。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ(三方ヶ原の戦い。(現在の静岡県浜松市内))。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広成瀬正義をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりを何人も置き去りにして、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は妙計「空城の計」によって、それを怪しんだ武田信玄に城内侵攻を躊躇わせ、撤収を決断させたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる(しかみ像)。

武田信玄は浜名湖北岸で越年して三河へ進軍。元亀4年(1573年)2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き1ヶ月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還する。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4ヶ月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんど無かったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。

天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍に遠江高天神城を侵攻される。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。

天正3年(1575年)5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められる。これに対して長篠城主・奥平貞能・奥平貞昌親子は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行なわれた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した(長篠の戦い)。戦功の褒美として 奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名し、家康の長女・亀姫を正室として貰い受けている。

この戦いで武田軍は山県昌景馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、徳川・武田の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還している。

天正7年(1579年)、正室・築山殿と長男・松平信康に武田勝頼への内通疑惑がかけられる。信長に対し抗弁の使者を立てるも、信長からの要求は、両名の処刑であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室・嫡男の両名を殺害した。この事件は一説によると信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためと言われるが、近年では家康と信康が対立したためで、それを信長からの命令という形にした、という説も強くなってきている。

天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回する。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させる。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領する。これに対して勝頼にはもはや対抗する力は無く、最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山田野において自害し、武田氏は滅亡した。

家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられている。


本能寺の変

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。

6月2日、堺で遊覧中に京都で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数だったので、極めて危険な状態となり狼狽し信長の後を追おうとするほどであった。このとき、本多忠勝に説得され家康は服部半蔵の進言を受け伊賀越えを決行し、加太越を経て伊勢国から海路三河にかろうじて戻った(神君伊賀越え)。 その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張にまで進軍したが、このとき中国から大返しした羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたことを知った。

一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃で一揆が起こった。さらに越後上杉景勝相模北条氏直も侵攻の気配を見せたため、信濃の森長可毛利秀頼は領地を捨てて逃亡し、上野滝川一益は北条氏直と戦って惨敗し、尾張に撤退する。甲斐の領主・河尻秀隆に至っては、武田家の税法や慣習を認めず、一方で大規模な武田の残党狩りを行い、領民や旧武田浪人から恨みを買っていたため、信長の死を契機として一揆が発生し、攻め殺されてしまった(ただし家康が影で煽動したという説もある)。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏旧臣の岡部正綱依田信蕃武川衆らを先鋒として甲斐に派遣し、自らも8,000の軍勢を率いて、甲斐に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐と信濃が空白地帯となったのを見た相模の北条氏直も、叔父・北条氏規北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃に侵攻する。北条軍は越後から北信濃に侵攻していた上杉景勝軍と川中島で対峙した後に、北信4郡を上杉に割譲することで和睦し、南下する。次いで甲斐へ侵攻中だった徳川軍と甲斐新府城、若神子で対陣。ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、徳川方の依田信蕃の調略を受けて徳川方に寝返った真田昌幸らの執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条方は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求める。和睦の条件は、上野を北条が、甲斐・信濃を徳川がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名へとのし上がったのである。

秀吉との戦い

信長死後の天正11年(1583年)、織田家筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭する。これに不満を覚えた信長の次男・織田信雄は、家康と手を結んだ。そして徳川・織田連合軍は天正12年(1584年)3月、尾張小牧において羽柴軍と対峙する。このとき、羽柴軍の兵力は10万、徳川・織田連合軍は5万であった。家康は兵力的に不利であったが、秀吉が小牧に到着する前の3月17日、秀吉軍の武将・森長可率いる軍勢を酒井忠次に命じて撃破させた(羽黒の戦い)。

4月5日に秀吉率いる羽柴軍主力は犬山城に入り徳川軍と対峙したが、秀吉は家康の武略を恐れて動かず、戦線は膠着状態に陥った。4月7日、秀吉方の武将・森長可とその岳父である池田恒興が「中入り」によって三河岡崎城を奇襲すべく、別動隊を率いて出陣する。しかし家康は別働隊の動きを捕捉し、逆に自ら羽柴別働隊に奇襲をかけて殲滅し、敵の総大将・羽柴秀次を敗走させ、恒興と長可、池田元助(恒興の嫡男)らを討ち取った(小牧・長久手の戦い)。

これを機に、秀吉は家康を正攻法で打ち破ることは困難と判断し、家康の味方である伊勢の織田信雄を攻めた。信雄軍には単独で羽柴軍と対抗できる力は無く、11月11日、秀吉と単独講和してしまった。家康は小牧・長久手の戦いの大義名分を「信長の遺児である信雄を助けて、秀吉を討つ」としていたため、信雄が秀吉と講和したことで名分を失った家康は撤退を余儀なくされた。そして12月12日、秀吉との講和として、次男の於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子(人質)とすることで大坂に送った。

天正13年(1585年)に入ると、紀伊雑賀党や土佐長宗我部元親越中佐々成政など、前年の小牧・長久手の戦いで家康に味方した勢力は、秀吉によってことごとく討伐された。このため、秀吉との対立で不利になった家康は、相模の北条氏直との同盟関係を強化するため、上野の沼田領を割譲する約束を出した。ところが、沼田を支配していた信濃上田城主・真田昌幸はこれに応じず、家康から離反して越後の上杉景勝に寝返った。これに対して家康は、大久保忠世鳥居元忠を大将とした1万の軍勢を真田攻めに派遣したが、昌幸の巧妙な戦術の前に大敗を喫し、さらに上杉の援軍が来たこともあって、撤兵を余儀なくされる。

また、この頃になると徳川家中は、酒井忠次本多忠勝ら反秀吉の強硬派と、石川数正ら秀吉支持派の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。そして11月13日、数正が徳川家から出奔して秀吉に寝返り、家康は窮地に陥ってゆく。

天正14年(1586年)4月23日、秀吉からの臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は妹の朝日姫を正室として差し出した。当時、家康には正室がいなかったためである。5月14日、家康と朝日姫は結婚するが、家康はなおも臣従しようとしなかった。しかし10月18日、秀吉が生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。10月20日に岡崎を出立し、10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いに来て、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城にて秀吉に謁見し(諸大名の前で)秀吉に臣従する事を表明した。

豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵伊豆相模上野下野上総下総の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。

関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安伊奈忠次長谷川長綱彦坂元正向井正綱成瀬正一日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。 文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣することだけで許された。"常山紀談"には、本多正信が「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードを残している。しかし実際に渡海せずに済んだのは、小田原攻めと奥州攻めでの先鋒を務めた為の優遇措置との見方もある。が、「際限りなき軍役」といって苦しんだ朝鮮出兵に徳川軍が渡海を免れたお蔭で、家康は兵力と財力の消耗を免れ、自国を固めることができた。(小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』 静新新書 2007年)

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が発生。豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の沈静化を図った。家康も秀吉の命で上洛したが、これ以降家康は、開発途上の居城・江戸城よりも、伏見城に滞在する期間が長くなった。豊臣政権内に占める家康の比重が高まっていったのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを直接学ぶ事になる(小和田哲男『駿府の大御所 徳川家康』 静新新書 2007年)。

慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。そして8月、秀吉は死去した。

覇権奪取にむけて

秀吉の死後、家康は「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という秀吉の遺言により専横の兆しを見せ始める。さらに秀吉の生前である文禄4年(1595年)8月に禁止されていた大名同士の婚儀なども行って、巧みに味方を増やし始めた。その婚儀の内容は次の通りである(ちなみに婚姻した娘は、全て家康の養女とした)。

さらに家康は、細川忠興島津義弘増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問して、多数派工作を行なった。こうした政権運営をめぐって大老・前田利家五奉行石田三成らは憤激し、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老堀尾吉晴らを問罪使として派遣した。ところが家康は、吉晴らを恫喝して追い返したと言われている。しかし2月2日、家康は前田利家らと対立する不利を悟って、誓書を交わして和解した。しかし、閏3月3日に利家が病死すると、豊臣政権下で家康と互角に渡り合えるだけの勢力を持った人物はいなくなった。

利家が死んだ日の夜、福島正則や加藤清正らが、五奉行の石田三成を襲撃した。実は豊臣政権下では、秀吉の晩年から福島ら武断派と、石田ら文治派による対立があり、秀吉と利家が死去したことで、それが表面化したのである。三成は武断派諸将の襲撃をかわして家康に救いを求めた。家康も、現時点で三成を殺せば、自身の信義を問われることを恐れて三成を保護し、武断派諸将を慰撫し、三成に対しては保護する代わりに奉行職を解任して、佐和山城で蟄居させた。

9月7日、家康は大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。そしてそのまま大坂に居座って、政務を執り続けた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城西の丸に居座って、大坂で政務を執り続けた。

さらに家康はこの頃、豊臣政権下における諸大名の切り崩し工作も行なった。9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政大野治長土方雄久の4名が家康の暗殺計画を企んだとして、10月2日に長政を甲斐府中で隠居の上、蟄居させ、治長は下総結城の結城秀康に、雄久は常陸水戸佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を強行しようとしたが、利長が生母の芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したことで、征伐を取りやめた。しかし、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し兵を挙げようとする三成らの事実無根の謀略であったとも言われている。

関ヶ原の戦い

詳細は 関ヶ原の戦い を参照

慶長5年(1600年)3月、家康は越後堀秀治出羽最上義光らより、会津の上杉景勝に軍備を増強するという不穏な動きがあるという報せを受ける。3月11日には、上杉氏の家臣で津川城城代を務め、さらに家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ、「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起こる。

これに対して家康は4月1日、伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使として派遣する。ところが景勝の重臣・直江兼続は「直江状」という有名な挑戦状を返書として送ったことから、家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして、5月3日、上杉討伐を宣言した。このとき、前田玄以長束正家増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏生駒親正らが征伐の中止を訴えたが、家康は無視して征伐を強行する。6月2日には、家康直属の関東の諸大名に陣触れを出し、6月6日には諸大名を大坂西の丸に集めて軍議を開いた。6月8日には後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。6月15日には秀頼から黄金2万両、兵糧米2万石を下賜され、ここに朝廷・豊臣氏から、家康の上杉征伐は、「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦となったのである。

6月16日、家康は大坂城京橋口より、軍勢を率いて上杉征伐に出征した。同日の夕刻には伏見城に入る。ところが6月23日には浜松、6月24日には島田、6月25日には駿府、6月26日には三島、6月27日には小田原、6月28日には藤沢、6月29日には鎌倉、7月1日には金沢、7月2日には江戸という、遅々たる進軍を行なっている。家康にはどうも、自分が上方を留守にしたとき、家康に反感を持つ石田三成ら諸大名が挙兵するのを待っていたものと思われる。というのも、秀吉亡き今、家康の武力は天下随一であるが、豊臣氏の家臣であるという立場上、直接的な武力クーデターで豊臣氏を滅ぼしてもそれは反逆行為であり、他の諸大名や世論から非難されることは明らかである。そこで、家康は三成の挙兵を大義名分として、豊臣氏の乗っ取りを図ろうとしていたものと思われる。

はたして7月、石田三成毛利輝元を総大将として擁立し、大谷吉継増田長盛長束正家らと共に挙兵した。7月17日には家康によって占領されていた西の丸を奪い返し、さらに家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。7月18日には家康の命令で伏見城を守っていた鳥居元忠を攻め、8月1日に元忠は討ち取られ、伏見城は落城した。さらに三成ら西軍は伊勢、美濃方面に進出する。

これに対して家康は7月24日の下野小山の陣において、伏見城鳥居元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康はこれに対して博打を打つ。実は、家康の上杉征伐に従軍していた諸大名の大半は、福島正則ら三成に反感を持つ武断派グループだった。そのため、家康は「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると武断派グループに告げた。三成は大坂城と秀頼を事実上、擁立していたため、家康は彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたのであるが、この家康の発言に福島正則加藤嘉明らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成されたのである。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島らの軍勢、合わせて10万ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。さらに家康は7月24日から9月14日にかけて、160通近い書状を書き、さらに味方を増やすべく諸大名に回送している。

8月10日、福島正則ら東軍は尾張清洲城に入る。8月21日には西軍の勢力下にあった美濃に侵攻し、8月23日、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。

9月1日、家康は江戸城から出陣し、9月14日に美濃に着陣した。同日、前哨戦として三成の家臣・島左近宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死してしまった(杭瀬川の戦い)。

9月15日午前8時、美濃関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかる。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、東軍が形勢逆転した。戦いの最終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘軍が本陣目前にまで猛攻して来るという非常に恐ろしい経験もしたが、ここに関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の勝利に終わった。

家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領のうち、自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」とお咎めなしで領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各地の大名に預けていた領地がなくなった。その結果として豊臣氏は摂津河内和泉65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。

征夷大将軍

関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行なった。「将軍になれるのは清和源氏」という慣例もあった。そこで家康は、神龍院梵舜に命じて徳川家の系図を源氏の源義家に通じるように整備させた。

※注意

近年笠谷和比古煎本増夫の研究によれば、家康が本姓源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるとされる。後陽成天皇聚楽第御幸に際して提出された誓紙の中で家康が「大納言源家康」と署名している為である。他に天正19年(1591年)、家康が相模国の寺社に出した朱印状にも「大納言源朝臣家康」と記された書判もあり、これらのことから笠谷らは「豊臣政権下で家康は既に源氏の公称を許されていた」と指摘している。なお、家康は勅許を得て松平姓から徳川姓に改姓した際には本姓は藤原氏と公称していた。また実際には清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がないので将軍になれるのは清和源氏でなければならないというのは江戸期に作られた俗説とする説がある。

慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。そしてここで六種八通の宣旨が下し、家康を征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命した。征夷大将軍への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、足利義満から始まった慣例である。

3月21日、家康は二条城で正式な将軍宣下を受け、3月25日には参内して将軍拝賀の礼を述べた。ただし、朝廷から正式な将軍宣下が行なわれたのは3月27日であり、この日を以て正式に江戸幕府が開かれたと見てよい。

家康は秀吉の死から四年半で、豊臣氏の五大老から武家の棟梁としての地位を手に入れた。家康は秀吉の義弟にして、五大老筆頭、足利とならぶ河内源氏の名門、新田の出であること、何より関東を実質的に支配していることを、朝廷に運動し征夷大将軍の宣下を請うた。一歩間違えば天下簒奪の謗りを免れないが、秀頼幼少を理由にするとも、西欧列強への備えを理由とするとも、当時の家康の勢力からすれば大義名分はどうにでもなったといえよう。しかるに、豊臣家がそれを心穏やかに見る筈もなく、豊臣方には将軍就任を一時的なものであると印象づけておいた。また、徳川氏の本姓の改姓が関ヶ原の戦い以後であるならば、藤原姓の内大臣であった家康が藤原姓を理由に関白へ就任する事も可能であった。だが、それでは秀吉と同じ様な政権しか作りえない。豊臣政権の脆弱さを目の当たりにした家康にとっては豊臣政権の構想を否定するために征夷大将軍として武家の棟梁となり、朝廷に対しては関白に代わって源氏長者の立場で発言力を確保したのである。

当時における主従は武家社会では重要であるが、朝廷の権威をもってしなくては、私的なものでしかない。朝廷から武家の棟梁として認への大義名分を得、名実ともに豊臣家を上回る地位を確立した。幕府開府にあたって武家諸法度禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定めた。朝廷を掌握すれば豊臣家が大義名分の上で形成挽回する道はなく、天下統一の後においても、朝廷を支配下に入れることは、その後の謀叛の予防やあらゆる政治的な優位を確立する上で重要であった。

大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、家康は三男の徳川秀忠に譲位を行ない、将軍職は以後「徳川家が世襲していく事」を天下に示した。同時に家康は、秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿が激怒して拒絶する。結局、家康が六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。しかし、豊臣家の権威が大きく傷ついたことはいうまでもない。

慶長12年(1607年)に駿府城に移って、江戸の将軍・秀忠に対して大御所として実権を掌握し続けて二元政治をとりつつ、幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。ただし、二元政治と言われるが、実際は家康・秀忠の対立も多く、また徳川家臣による権力闘争も少なくなかった。慶長17年(1612年)の岡本大八事件、慶長18年(1613年)の大久保長安事件などが、それを如実に示している。

慶長16年(1611年)、二条城にて豊臣秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣家はこれを拒絶する方向でいたが、将軍秀忠は秀頼の岳父である関係で、あくまで岳父への挨拶にという名目で上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功。これで秀頼の方から徳川家に足を運んだ形となり、天下の衆目は家康が日本の主君であることを認めることとなる。

方広寺鐘銘事件

家康は、当初、徳川家と豊臣家の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣家に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいるしかし、豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣家は、徳川家との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の敗残兵であり家康に恨みをもつ者たちであり、打倒徳川の心情であった。

さらに徳川家にも問題を抱かえていた。将軍・秀忠と松平忠輝は仲が悪かったし、将軍家でも秀忠の子である徳川家光徳川忠長のどちらが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタン信者の動向も不気味であった。もしこれらが豊臣家と手を結んで打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。

そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正堀尾吉晴浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏の天下に対する影響力は衰えてゆく(あまりにも豊臣系の大名の死が相次いだため徳川による毒殺説もある)。

そして慶長19年(1614年)、最晩年を迎えた家康は豊臣家を完全に屈服させることを決意、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始する。

豊臣家は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建し、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文に不吉な語があると言いがかりをつけた。「国家安康」、「君臣豊楽。子孫殷昌」、「右僕射源朝臣」である。家康は「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽。子孫殷昌」を豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。これは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。

さらに家康は8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行なわせた。その結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。

これに対して豊臣方は家老の片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康を翻意させるため弁明を試みようとした。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、片桐且元を大坂へ返した。片桐且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣方は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に片桐且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は、豊臣家が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に豊臣方に宣戦布告したのである。

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)11月15日、家康は二条城を発して大坂攻めの途についた。そして家康は20万からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが、力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行なうにとどめた。

11月19日、蜂須賀至鎮らの攻撃で、木津川口の戦いが行なわれ、徳川軍が勝利する。同日、向井忠勝ら徳川水軍の攻撃によって、豊臣水軍は敗れた。11月26日には佐竹義宣らに命じて今福・鴫野の砦を落とさせた(今福の戦い鴫野の戦い)が、木村重成らの猛反撃を受けて辛勝するにとどまった。11月29日、家康は池田忠雄らに命じて博労淵砦の奪取を行なわせた(博労淵の戦い)。ところが守将の薄田兼相が遊女屋に泊り込んで留守にしていたため、あっけなく奪取した。このように徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。ただし、12月4日に行なわれた真田丸攻めでは、徳川軍は真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。

とはいえ、家康はこの程度の敗戦を気にすることも無く、12月9日に新たな作戦を始動する。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲石火矢大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は、12月19日、家康に和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。

和議の条件は、大坂城の惣堀を埋め立てと二の丸、三の丸の破壊である。12月23日から2日で惣堀を埋め立てた後、12月25日には腹心の本多正純に命じて大坂城二の丸、三の丸の櫓を全て破却させ、土塁と石垣を崩し、さらに内堀も埋め立て慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

大坂夏の陣

豊臣方は慌てて埋め立てられた堀を掘り返そうとした。ところが、家康は、それを「豊臣家が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣家の移封を要求。更に徳川義直の婚儀の為と称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣方に要求が拒否されるや侵攻を開始した。

これに対して豊臣方は、大坂城からの出撃策をとった。しかし兵力で圧倒的に不利な豊臣方は、塙直之後藤基次木村重成薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川方の大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁毛利勝永らの奮闘もあって、一時は家康本陣の馬印が倒れ、家康自身も自害を覚悟するという危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川方により信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城。5月8日、豊臣秀頼淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した(詳細は各項目を参照)。 なお「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあるが、これは主筋であった豊臣家を滅ぼし非難されることを避けるための後の創作であるとも言われている。

その後豊臣大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川家によって新たな大坂城が再建されたり、秀吉に死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊国神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置される、さらには大坂の陣で家康と対立した淀殿の事を「淀君」と蔑称で呼んで(「君」とは当時の遊女の蔑称)、「神君家康に楯突いて豊臣氏を滅亡の道へと進ませた無謀極まりない悪女」のように評価するなど、江戸幕府によって豊臣家は滅亡後もなおその存在を徹底的に否定される事となる。なお、豊臣家が名誉を回復するのは明治維新以後の事である。

最期

元和元年(1615年)、家康は禁中並公家諸法度を制定して、幕府の朝廷に対する統制と将軍家と天皇家の君臣の別を明らかにした。また、諸大名統制のために武家諸法度一国一城令が制定された。こうして、徳川家による日本全域の支配を実現した。

元和2年(1616年)1月、鷹狩に出た先で倒れた。3月21日に朝廷から太政大臣の位を贈られた。4月17日巳の刻午前10時ごろ)に駿府城において死去した。享年75歳。

死因は、天ぷらによる食中毒説がある。鯛の天麩羅死亡説は、家康が鯛の天ぷらを食べたのは1月21日の夕食であり、亡くなったのは4月17日で(いずれも旧暦)、食中毒とするには日数がかかり過ぎている。諸症状から見て胃癌梅毒と考えられている。尚、家康が問題の天麩羅を食べたのは田中城(現静岡県藤枝市田中)であった。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」(『東照宮御実記』にこの二首が伝わる)を詠んだ。

余談であるが、江戸城内においては天ぷらを料理する事は禁止されていた。これは徳川家康の死因が天ぷらによる食中毒であるためという説明がなされる場合もあるが、実際には、大奥の侍女のひとりが天ぷらを料理していて、火事を出しかけたがために禁止されたというのが事実である。

出典