山口組

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六代目 山口組
神戸・山口組総本部

山口組(やまぐちぐみ)は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団

その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46.3%を占めている。2012年2月、アメリカ合衆国経済制裁の対象になる。組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。

“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし)と呼ばれる代紋を用い、広島県沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。

来歴

黎明

山口組初代組長 山口 春吉

山口春吉沖仲仕を集めて神戸市内を本拠に結成。のちに“神戸ヤクザの頂点”と言われるに至る大嶋秀吉率いた大嶋組の傘下にあっての結成で、およそ50名の労務者を抱える『山口組』として発足。事務所を兵庫区の西出町内に置いた。1915年(大正4年)のことであった。

しばらくは大嶋組の傘下にあって活動したものの、いつしかその勢力は本家の大嶋組を凌ぐものとなり、1925年における山口登の二代目襲名を経て、神戸中央卸売市場の開設に伴う利権を巡り大嶋組と対立。死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得るに至り、1932年をもって大嶋組から独立した。

三代目:急成長

1942年における山口登の死後しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足。この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代〔1955〜1964〕から昭和40年代〔1965〜1974〕にかけて全国各地へ進出。対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった。

田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年までに、傘下424団体、総勢9450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、小松島抗争明友会抗争鳥取抗争博多事件広島代理戦争松山抗争などが主要なそれであった。

警察当局によるいわゆる『第一次頂上作戦』のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。

四代目から21世紀へ

1984年における竹中正久の襲名によって四代目体制が発足するも、これを不服とした離反勢力を相手とする大規模な抗争(→山一抗争に突入。その過程で抗争相手の一和会により暗殺された竹中に代わって、抗争が終結するに至った平成元年〔1988〜1989〕、傘下山健組を率いた渡辺芳則を首領に据える五代目体制が発足。

五代目体制期の1995年に阪神淡路大震災が発生すると、地元紙記者をして『半端なものではなかった』と言わしめた、渡辺自身の陣頭指揮による組織ぐるみの救援活動を展開。1997年になると五代目体制開始以来の非常事態と言われた宅見若頭射殺事件が発生。この事件は以後の組織に混迷をもたらす未解決の懸案となった。

2004年から長期休養に入るとともに組織運営の全権を執行部へと委譲していた渡辺であったが、2005年の7月に引退を表明。予期なき突然の引退であった。ここに16年間の長きにわたった五代目体制が終焉。そして若頭の役にあった司忍の新たな襲名をもって、同年のうちに六代目体制が発足し現在に至っている。

綱領と組指針

田岡三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。

一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
一、長幼の序を弁え礼に終始す。
一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。

加えて年度ごとに定められる「組指針」がある。

六代目体制発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離を置いている。「山口組を含めて、六代目の体制になってからは警察に速やかに入り、調べてもらいなさいという姿勢をとっている。昔はどったんばったんやったりして殴られたりもしたが」と記者の質問に答えており、警察との関わりに変化が見られる。いわゆる不良外国人との付き合いや、違法薬物の取り扱いなども公式に禁止している。

綱領と組指針

山口組2代目 山口 登
山口組3代目 田岡 一雄
山口組4代目 竹中正久
山口組5代目 渡辺 芳則
山口組6代目 司 忍

三代目時代に制定された5条からなる「綱領」が、定例会など行事の際には唱和される。また、年ごとの「組指針」も定められている。

六代目発足以降「警察官と接触しない」、「警察機関に人、物を出さない」、「警察官を組事務所に入れさせない」の三点を定め警察との距離をおいている。

歴代組長

歴代若頭

山口組若頭とは暴力団山口組の若頭で役職の中では組長に次ぐナンバー2である。

二代目時代
三代目時代
四代目時代
五代目時代
六代目時代

六代目山口組

最高幹部

役職 氏名 二次団体 本部
組長 司 忍(本名: 篠田健市)
若頭(執行部) 髙山清司(高山清司) 二代目弘道会会長 名古屋市中村区
最高顧問(舎弟) 野上哲男 二代目吉川組組長 大阪市淀川区
顧問(舎弟) 石田章六(本名: 朴 泰俊) 章友会会長 大阪市北区
顧問(舎弟) 大石誉夫 大石組組長 岡山県岡山市
顧問(舎弟) 尾崎彰春 心腹会会長 徳島県徳島市
総本部長(執行部) 入江 禎 二代目宅見組組長 大阪市中央区
若頭補佐(執行部・大阪南ブロック長) 橋本弘文(本名: 姜 弘文) 極心連合会会長 大阪府東大阪市
若頭補佐(執行部・大阪北ブロック長) 寺岡 修 俠友会(侠友会)会長 兵庫県洲本市
若頭補佐(執行部・九州ブロック長) 青山千尋 二代目伊豆組組長 福岡市中央区
若頭補佐(執行部・関東ブロック長) 鈴木一彦 旭導会会長 北海道旭川市
若頭補佐(執行部・阪神ブロック長) 井上邦雄 四代目山健組組長 神戸市中央区
若頭補佐(執行部・中部ブロック長) 正木年男 正木組組長 福井県敦賀市
若頭補佐(執行部・中国・四国ブロック長) 池田孝志 池田組組長 岡山県岡山市

舎弟

役職 氏名 二次団体 本部
英 五郎 英組組長 大阪市西淀川区
玉地健治 玉地組組長 堺市堺区
川合康允 川合組組長 岐阜県大垣市

幹部

役職 氏名 二次団体 本部
大原宏延 大原組組長 大阪市生野区
組長付 岸上剛史 十代目平井一家総裁 愛知県豊橋市
総本部長補佐 毛利善長(本名: 毛利時比呂) 毛利組組長 大阪府吹田市
組長付 光安克明(本名: 伊豆克明) 光生会会長 福岡市博多区
慶弔委員長 岡本久男 二代目松下組組長 神戸市中央区
総本部長補佐 剣 政和 二代目黒誠会会長 大阪市北区
若頭付 江口健治 二代目健心会会長 大阪市浪速区
若頭付 森尾卯太男 大同会会長 鳥取県米子市
藤井英治 五代目國粹会会長 東京都台東区

兵庫若中

役職 氏名 二次団体 本部
中村天地朗(本名: 中村豊彦) 二代目大平組組長 尼崎市
細川幹雄 細川組組長 尼崎市
柴田健吾 柴田会会長 加古川市
総本部当番責任者 細見孝夫 二代目佐藤組組長 神戸市中央区
古川恵一 二代目古川組組長 尼崎市
管 和巳 三代目真鍋組組長 尼崎市
清水 武 二代目岸本組組長 神戸市中央区
宮下和美 二代目西脇組組長 神戸市西区

大阪若中

役職 氏名 二次団体 本部
奥浦清司 奥浦組組長 東大阪市
平山桂次 三代目南一家会長 大阪市中央区
浅井昌弘 浅井組組長 吹田市
川口和慶 三代目小車誠会本家会長 大阪市西成区
野村 孝 三代目一会会長 大阪市北区
慶弔委員 髙木廣美(高木廣美) 五代目早野会会長 大阪市浪速区
布川皓二 二代目中西組組長 大阪市中央区
佐達秀正 三代目大野一家総長 大阪市港区
総本部当番責任者 里 照仁 二代目中島組組長 大阪市淀川区
慶弔委員 髙野永次(高野永次) 三代目織田組組長 大阪市中央区
奧村 修 二代目勝野組組長 大阪市西成区
総本部当番責任者 竹森竜治 四代目澄田会会長 大阪市北区
酢ノ内祥吾 二代目東生会会長 大阪市淀川区
亀井利臣 三代目松山組組長 東大阪市
能塚 恵 三代目一心会会長 大阪市中央区
秋良東力 秋良連合会会長 大阪市浪速区
飯田倫功 倭和会会長 大阪市中央区

他都道府県若中

役職 氏名 二次団体 本部
青野哲也 七代目一力一家総長 浜松市
尾崎勝彦 尾崎組組長 徳島県徳島市
山田忠利 二代目矢嶋組組長 愛媛県今治市
根本辰男 二代目川内組組長 福井県あわら市
北島 虎 二代目杉組組長 名古屋市中村区
慶弔委員 金光哲男 金光会会長 福岡市博多区
正田 悟 二代目松山会会長 愛媛県松山市
津田功一 二代目倉本組組長 奈良県奈良市
貝本 健 貝本会会長 名古屋市中村区
船木一治 三代目誠友会会長 札幌市中央区
慶弔委員 篠原重則 二代目若林組組長 香川県高松市
高木康男 六代目清水一家総長 静岡市清水区
総本部当番責任者 菱田達之 二代目愛桜会会長 三重県四日市市
総本部当番責任者 山本克博 五代目豪友会会長 高知県高知市
慶弔委員 田保伸一 二代目昭成会会長 石川県金沢市
掛野一彦 二代目近藤組組長 岐阜県岐阜市
総本部当番責任者 茶谷政雄 茶谷政一家総長 札幌市白石区
慶弔委員 落合勇治 二代目小西一家総長 静岡市
木村阪喜 木村會会長 愛媛県松山市
総本部当番責任者 髙橋久雄(高橋久雄) 二代目地蔵組組長 京都市南区
総本部当番責任者 田中三次 三代目稲葉一家総長 熊本県熊本市
宮本浩二 四代目北岡会会長 熊本県鹿本郡
中嶋初治 四代目小山組組長 和歌山県和歌山市
藤原健治 三代目熊本組組長 岡山県玉野市
清田健二 十代目瀬戸一家総裁 愛知県瀬戸市
田堀 寛 二代目名神会会長 名古屋市
津田 力 二代目倉心会会長 和歌山県和歌山市
良知政志 良知組組長 静岡県富士宮市
塚本修正 藤友会会長 静岡県富士宮市
清田隆紀 清田会会長 長崎県長崎市
一ノ宮敏彰 一道会会長 福岡市
髙山誠賢(高山誠賢) 淡海一家総長 滋賀県
富田丈夫 國領屋一家総長 浜松市
生野靖道 四代目石井一家総長 大分県別府市
浜田重正 二代目浜尾組組長 横浜市中区

6代目山口組事情で起きた組長殺害、裁判員「無罪」を2審が覆す

配下の組員に指示し、指定暴力団山口組山健組系組長を刺殺したとして、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)の罪に問われ、1審神戸地裁裁判員裁判で無罪判決を受けた山健組幹部で同組系組長、井上国春(64)に大阪高裁は2014年1月16日、懲役20年の逆転有罪判決を言い渡した。

ポイントとなったのは、組長が絶対的トップとして君臨する暴力団組織特有の構造だ。この事件は、かつて「山健にあらずんば山口にあらず」と言われたほど隆盛を極めたものの、6代目体制以降は名古屋弘道会が総本部を取り仕切る中で起きた山健組内での内部抗争ともいえる。このため、高裁は組織による犯罪と認定し「経験則上、特段の事情がない限り、組長の指揮命令に基づいて行われたと推認すべきだ」と指摘。1審判決を「経験則に反する不合理なもの」と断じた。

山健組内部抗争の見立て

事件が起きたのは、平成19年5月31日午後6時15分ごろ。神戸市中央区二宮町の路上で、山口組の2次団体(直系)「山健組」傘下組織の後藤一男組長=当時65歳=が胸などを刺され、間もなく死亡した。兵庫県警暴力団対策課は捜査本部を設置し、殺人容疑で捜査を始めた。

山口組内部の別の組織による犯行。捜査本部の見立ては当初から固まっていた。内部での後藤組長をめぐるトラブルが浮かんだためだ。

捜査関係者や高裁判決などによると、後藤組長は、山健組の直系組織で山口組の3次団体にあたる「多三郎一家」(名古屋市)の組長だった。

名古屋には、山口組の篠田建市(通称・司忍)6代目組長(72)の出身母体である2次団体「弘道会」の本部がある。篠田組長は当時服役中で、同じく弘道会出身の山口組ナンバー2の若頭高山清司(66)=恐喝罪で1審有罪、控訴中=が組を仕切っていた。

高山は全国の2次団体組長に、山口組総本部(神戸市灘区)への日参を義務付けるなど組織の締め付けを強化。巧妙な資金獲得活動を背景に弘道会の勢力を拡大させ、警察当局に対しても強硬路線をとり続けた。

これに対し、警察当局が山口組の取り締まりを強化するなどしたため、「シノギ(資金獲得)に窮する組織が増え、山口組内部では高山被告の手法への不満がくすぶっていた」(捜査関係者)という。

高山若頭への批判

後藤組長が所属していた山健組は、かつて「山健にあらずんば山口にあらず」とも言われた有力組織。初代組長は、山口組の田岡一雄3代目組長を支え続けた武闘派・山本健一若頭だ。弘道会と同じ名古屋を拠点とする後藤組長は、特に高山への批判を強めていたとされ、事件直前に山健組を破門されていたという。

捜査本部はこうした事情を重視して捜査を進めた結果、事件の構図を「山口組内部での体面を守るため、造反者である後藤組長を処分しようとした山健組系の別組織による犯行」と断定。井上が組長である「兼國会(現・健國会)」の配下の組員らを相次いで逮捕した。

さらに、組員らに後藤組長殺害を指示したとして、平成22年4月には組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)容疑で井上を逮捕。神戸地検が起訴した。

しかし、井上は捜査段階から一貫して犯行を否認。神戸地裁裁判員裁判検察側は懲役25年を求刑したが、地裁は平成24年2月、「被告が関与した可能性はあるが、被告の指揮で組織的に実行されたとするには、合理的な疑いが残る」として無罪を言い渡した。

判決を不服とした検察側は大阪高裁に控訴。2審でも井上側は無罪を主張したが、高裁の的場純男裁判長は逆転有罪を言い渡した。

指揮なしは「極めて不自然」

判決理由で的場裁判長はまず、兼國会の組長である井上の支配力が「暴力団特有の厳格な上下関係や暴力的価値観を背景とする絶対的なものであることは経験則上明らか」と判断。今回の事件について「兼國会の最高幹部らや下部組織の組員が相当数関与し、実行者の人選や運搬、実行、逃亡支援などの役割分担がされており、兼國会の指揮命令系統に従って組織的に準備、遂行された」と認定した。

さらに、犯行の動機が幹部らの個人的な利益とは到底考えられないことから、「上部組織との関係を含む兼國会としての重大な利害のために行われたことは自明というほかない」と指摘。兼國会のために組織として行われた犯行である以上、「井上被告の指揮命令に基づかずに行われたというのは、極めて不自然で通常はあり得ないというべきだ」と結論づけた。

加えて、判決では暴力団犯罪全般についても言及された。

暴力団の組織的な犯行は「経験則上、特段の事情がない限りは、当該暴力団の組長が共謀に加わり、その指揮命令に基づいて行われたものとすべきだ」と判示。今回の事件については「暴力団の組織や行動に関する経験則のとらえ方が重要な意味を有する事案」と評した。

理解されにくい“ヤクザの論理”

「親分の意向を無視して配下の組員が勝手にほかの組織の組長を殺害するなど、暴力団社会では考えられない。特に、今回の事件では兼國会と多三郎一家は山健組内で同格。組長の意向に反して殺害すれば、今度はその組員が粛清の対象になりかねない」

暴力団捜査に長く携わる捜査関係者はこう指摘した上で、「裁判員になって初めて暴力団の実態を知る市民には、なかなか理解できないのではないか」と推測する。

最高検によると、裁判員裁判で全面無罪となりながら、職業裁判官だけで審理する2審で逆転有罪となったのは、2013年末時点で3件。いずれも覚せい剤取締法違反事件だった。

また、裁判員裁判での無罪判決でも、覚せい剤取締法違反事件が半数近くに上る。「運び屋」として起訴された被告が、「荷物の中身を覚醒剤と認識していたか疑問が残る」などと判断されたケースが多い。

ある検察幹部は「無罪判決の場合、大前提となる暴力団や覚醒剤密売グループの論理を軽視されることがある。市民感覚からかけ離れた実情を裁判員に理解してもらえるよう、丁寧に説明しなければならない」と話す。

裁判員裁判の判決を「経験則に反する不合理なもの」と断じた今回の大阪高裁判決。井上側は、判決を不服として上告しており、最高裁の判断が注目される。

山口組ナンバー2「高山若頭上告取り下げ」。“親・弘道会”幹部を代理指名、組織引き締めに目処か(2014年6月)

日本最大の暴力団、山口組若頭の高山清司被告。自身の裁判では最高裁への上告を取り下げた。自らが不在の間の組織固めがすんだのではないか、との憶測を呼んでいる。山口組史上、若頭が不在時に“嵐”が吹くことがあるとされ、今後の動向にも注目が集まる。

指定暴力団山口組ナンバー2の若頭、高山清司被告(66)が収監される。男性から4000万円を脅し取ったとする恐喝罪に問われ、1、2審で懲役6年の実刑判決を受けた後、最高裁に上告していたのを取り下げ、刑が確定したためだ。高山被告は、山口組の篠田建市(通称・司忍)6代目組長と同じ「弘道会」出身。常に篠田組長を支え続けた“懐刀”で、現体制のキーマンでもある。服役による不在は組全体に影響を及ぼしかねないとみられているが、最近は服役を見越した引き締めとも取れる動きが続いていて、上告取り下げは「ナンバー2不在でも体制を維持できる環境が整った証」という見方も浮かぶ。

捜査関係者によると、5月26日午前、神戸市灘区の山口組総本部に「直参」と呼ばれる直系組長が集まった。直参を集めた会合は毎月上旬に開かれるのが定例だが、このときは緊急招集がかけられた。

直参の緊急会合が開かれるのは重大な局面を迎えたときとされる。平成17年7月には渡辺芳則5代目組長の引退と篠田建市若頭(当時)の6代目就任が発表されたほか、暴力団対策法施行(平成4年)直前や宅見勝若頭射殺事件(平成9年)直後にも開かれたことがある。

今回のきっかけは「高山被告の上告取り下げ」だった。この席上、高山被告は、山口組最高幹部ポストの一つ「統括委員長」に座る「極心連合会」(大阪府東大阪市)の姜(通称・橋本)弘文会長(67)を、服役中の代理として指名したという。

ここで登場する姜会長は、山口組系の有力組織・山健組の出身。山健組は「山健にあらずんば山口にあらず」とまで呼ばれた“保守本流”の直系組織だ。名古屋本拠の弘道会と地元・神戸本拠の山健組は、とかく比較されがちだが、姜会長は弘道会に近い存在だったという。

高山被告は平成17年、山口組若頭となった。篠田組長が同年に6代目を襲名し、自身の出身母体で名古屋を本拠とする弘道会会長の高山被告を登用したのだ。

以降、山口組の信賞必罰姿勢は強まり、直参の管理体制が厳格化されたといい、采配は直参の“長男格”である若頭の高山被告が振るっているといわれている。こうした高山被告の不在は、組織の要が抜けるというまさに重大局面だった。

「いつもすまんな」

高山被告が問われた恐喝罪は、別の直参組長とともに建設業の男性からみかじめ料名目で4000万円を脅し取ったというもの。1、2審判決は、17年12月~18年12月に計3回、京都市内のホテルなどで男性から計4000万円を脅し取った、と認定した。

高山被告は1審京都地裁の初公判で「恐喝しようと思ったことはなく、全く関知していない。私は無実です」と述べるなど、一貫して無罪を主張。

しかし、昨年3月の地裁判決は、高山被告が京都市内の料亭で男性に「今後もよろしく」と述べた点を、「男性を配下とし、みかじめ料の支払いを求めた発言だった」などと共謀を認定。「実行行為を分担した責任は免れない」と指摘し、懲役6年の実刑判決を言い渡した。

高山被告は控訴した。しかし、今年2月の2審大阪高裁判決も、高山被告から「いつもすまんな」と声をかけられたなどとする被害男性の供述を「ほかの関係者供述などと整合しており、信用できる」と判断。高山被告は別の直参組長らの恐喝を了解していたとして、控訴を棄却。高山被告はすぐさま上告した。

一貫して無罪主張を続けた中での上告取り下げ。「早めに服役しておけば、体が動けるうちに『復帰』できると考えたのではないか」。ある捜査関係者はこう分析する。1年近く勾留されていたため、服役は5年ほどになる見込みだ。

「早期復帰」を目指すのであれば、もともと上告しないという手もあったかもしれない。これについては「その後に予想される若頭不在の体制に向け、組織を引き締めるための時間が必要だったのではないか」とみている。

この見方に沿うかのように、1審で有罪判決を受けて以降、直参の除籍や絶縁処分が相次いだ。

理由はそれぞれ違うようだが、「組織のタガが緩まないよう、信賞必罰を厳しくしたのではないか。例えば、資金繰りが苦しいとみられていた組織を退けているが、これも厳しい姿勢を見せたかったのだろう。社会的な暴力団排除の機運が高まり、シノギがどんどん細くなる中、資金力がある組織をつぶす必要はない」。

突然の上告の取り下げはこうした引き締めに一定のめどがついたと受け取ることができる。

山口組史上、現役若頭の不在はたびたび「嵐」を呼び起こしている。代表的なのが、昭和59年から5年近くにわたり山口組と一和会との間で繰り広げられた「山一抗争」だ。

昭和56年7月、山口組の全国展開を進め、現在の体制の礎を築いた田岡一雄3代目組長が死去した。後継の有力候補で、武闘派といわれた山本健一若頭は収監中だったが、刑の執行が停止されるほど持病が悪化。昭和57年2月に帰らぬ人となる。

すると4代目の座をめぐり、山本健一若頭の後を継いだ竹中正久若頭と、山本広組長代行の間で主導権争いが表面化。昭和59年6月に竹中若頭の4代目襲名が決まるのだが、山本広組長代行を支持するグループが「一和会」を結成すると、山口組との抗争に突入。竹中4代目組長と中山勝正若頭が一和会系のヒットマンに射殺されるなど血みどろの抗争になり、一和会が解散に追い込まれるまで続いた。

山口組にとって、こうした抗争は避けたいはずだ。金がかかるという理由に加え、平成24年に暴対法が改正され、新設された「特定抗争指定」を受ける恐れがあるからだ。指定を受けると、指定区域内にある事務所への出入りや5人以上の組員が集まることを禁じられる。破れば即逮捕の対象になり、一切の活動が封じられることになる。

組織の引き締めを成し遂げた上で早期復帰を図る-。捜査関係者らは、高山被告の上告取り下げをそうしたシナリオだとみている。

親戚・友好団体

1988年12月、山口組四代目組長の葬儀に駆けつけた山口組幹部ら

日本社会との関わり

山口組の収入源は賭博麻薬などによるものであるが、それらの収入金額・売上高・資本金はトヨタ自動車を凌ぐ日本トップの企業であるという指摘がある[2]菅沼光弘によれば、同和部落在日朝鮮人出身者が大半であり、兵庫県神戸市税収を担い、中部国際空港の建設に関わったとされ、日本社会の中に深く根ざし、影響力を行使するものであるという指摘がなされた[3]

また、元山口組顧問弁護士山之内幸夫は『文芸春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた。

古歩道ベンジャミンによると「山口組には以前サハリンで命を狙われたことがあり、ABC放送おはようコール収録後再び弘道会に命を狙われた」という[4]

脚注

  1. 出典は、飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.43
  2. 米国がトヨタと弘道会(山口組)の「黒い関係」を追及(2006年5月号)
  3. 日本を知るには裏社会を知る必要がある 菅沼光弘 元公安調査庁調査第二部長講演(東京・外国特派員協会)
  4. 明日の朝、山口組の本部に言論による「道場破り」に行きます 06/17/2008

参考文献