吉田清治

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吉田 清治(よしだ せいじ、1913年大正2年)10月15日 - 2000年7月)は福岡県山口県とも)出身の作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。別名は東司、栄司。

『私の戦争犯罪』(1983年)などの著書を上梓し、済州島などで戦時中に朝鮮人女性を慰安婦にするために軍令強制連行(「慰安婦狩り」)をしたと告白証言を行いその謝罪活動などが注目されたが、後に日本と韓国の追跡調査から創作であることが判明し、本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めた。しかし、吉田の証言は国連クマラスワミ報告(1996年)やアメリカ合衆国下院121号決議(2007年)などの事実認定でも有力な証拠として用いられている。

略歴

新聞では1983年段階で70歳と報道されている。調べによれば、吉田の生年月日は1913年10月15日である。また、本人の著作では本籍地山口県としていたが、実際には福岡県芦屋町西浜であるという。門司市立商業学校の卒業生名簿に「吉田雄兎」の名があり、それによれば、1931年同校を卒業したことになるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。

吉田の自著では、東京の大学を出て、1937年満州国地籍整理局に就職したことが記されている。地籍整理局への就職については裏付けがとれているが、学歴については朝日新聞法政大学卒業と報じ、1990年の『著作権台帳』にも同大卒とあるが、吉田自身、秦郁彦に対しては同大中退と述べ、1996年3月27日、勤労しつつ法政大学専門部法科に在籍したことを秦に対して説明している。しかし実際には、法政大学の在籍記録には吉田の名は掲載されていない。なお、クマラスワミ報告書は、吉田の学歴について東京帝国大学卒業と記している。

吉田によれば、1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっているが、上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという。吉田の自著によれば、1940年6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという。これによれば、1942年6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している。ただし、吉田本人は1996年秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。

吉田によれば、1942年9月、同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部動員部長になったということだが、これについては、中川八洋が2年間刑務所にあった「前科者」が、出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと指摘し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であることを検証している。ただし、吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している人がいた。吉田が済州島で慰安婦狩りをしたというのはこの時期のことであるが、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報告会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかった。また、吉田の陳述では、西部軍 → 山口県知事 → 下関警察署長 → 吉田のラインで労務調達の命令が下されたとしているが、当時、このような命令系統は存在しなかった。

吉田は、三一書房刊『私の戦争犯罪』(1983年)において、1943年5月15日付の西部軍動員命令によって1943年5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したと書きその要点は妻の日記に記載されているとした。しかし、吉田が大野フサエという女性と結婚したのはその一年後の1944年5月18日のことであり、妻の日記に動員命令の要旨が記載されているとは考えにくい。

終戦後の1947年昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。

1977年以降、吉田は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語った。その後、済州島の新聞「済州新聞」が追跡調査で当時そうした「慰安婦狩り」を島民が聞いた事がないという証言を得て吉田証言は事実ではないと報道。その後、秦郁彦らも追跡調査を行い、同様の結論にいたった。また吉見義明も吉田本人から創作を交えたことを聞いたため、吉田証言は資料としては用いることができないと確認した。

しかし、吉田証言は、1992年の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書や1996年の国連人権委員会クマラスワミ報告や1998年のマクドゥーガル報告書でも慰安婦強制連行の証拠として採用された。また、これら報告はその後も修正していない。2006年の米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された。その後、日本側の批判を受けて、2007年の改訂版では「吉田証言」が削除された。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としたうえで、2007年6月26日アメリカ合衆国下院121号決議が可決した。さらに2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも事実認定としてクマラスワミ報告マクドゥーガル報告書アメリカ合衆国下院121号決議が根拠とされ、吉田証言も事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた。

2000年代以降は消息が掴めない状況が続いたが、週刊新潮2014年3月13日号によると、吉田の長男の話として、2000年7月に死去したことが判明した。

西岡力は、吉田が「慰安婦性奴隷」説を最初に主張した人物であると述べている。

証言と活動

朝鮮人慰安婦の強制連行証言

1977年(昭和52年)に、『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』を新人物往来社から出版。その中で、第二次世界大戦中に日本軍人が朝鮮女性強制連行し慰安婦にし、自らも軍令済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたと告白、証言した。

1982年(昭和57年)には在樺コリアン樺太残留者帰還請求訴訟でも、済州島での朝鮮人奴隷狩りを証言した。なお、このとき、被告の日本政府代理人は反対尋問をしなかった。

1983年(昭和58年)に、済州島で200人の女性を拉致したと証言する『私の戦争犯罪』を上梓。いわゆる従軍慰安婦問題の発端となったともいわれ、1989年には韓国語版も出版された。

1983年12月に天安市に私費で謝罪碑をたてるために訪韓し、元労報徴用隊長の名義で土下座した。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治の謝罪碑活動を紹介した。歴史家の家永三郎も『戦争責任』(岩波書店、1985年)で吉田の著作を賞賛した。

その後も朝日新聞しんぶん赤旗などで自身の「戦争犯罪」の告白を展開。韓国にも赴き、講演と謝罪を繰り返した。このような告白、謝罪を行った吉田は当時「勇気あるただ一人の告白者」とされていた。だが、「慰安婦狩り」の舞台とされた済州島では証言への反論が多数出ることになる。

強制連行した朝鮮人の数についての証言

朝日新聞は、1982年9月2日、1992年1月23日、同年5月24日に吉田証言を詳しく伝えているが、2006年段階においても訂正記事を出していない。

済州新聞による反証(1989)

1989年に吉田の著書が韓国で翻訳された。

1989年8月14日済州島の現地新聞「済州新聞」の許栄善記者は、済州島城山浦の85歳の女性の「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という証言を紹介し、吉田の著作には「裏付けの証言がない」として、吉田のいう済州島での「慰安婦狩り」は事実無根であり、吉田の主張は虚偽であると報じた。

また同記事で済州島の郷土史家金奉玉も、「1983年に日本語版が出てから何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と、数年間の追跡調査で吉田証言が事実ではないと批判した。これらの済州新聞での批判記事は、1992年に日本の歴史学者秦郁彦が現地の図書館で発見し、それを日本で紹介されるまで知られる事はなかった。

1990年代の活動

朝日新聞による紹介

1991年5月22日朝日新聞大阪版で吉田の「木剣ふるい無理やり動員」発言が紹介され、同年10月10日朝日新聞大阪版では「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという吉田の証言を掲載した。

1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。他方、同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり、西岡力は、朝日新聞による一連の報道は誤報であると述べている。

同1991年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する(井上祐雅編集委員による)。同1991年11月22日北海道新聞では吉田は「アフリカの黒人奴隷狩りと同様の狩り立てをした」と発言した。

また、この頃、1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が20億ウォンの予算を投入して製作したドラマ『黎明の瞳』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面がそのまま放映され、反日感情を煽った。吉田は韓国やアメリカでも講演を行ない、海外メディアも報道した。

宮沢訪韓後の1992年1月23日夕刊コラム「論説委員会から-『窓』、従軍慰安婦」では、北畠清泰朝日新聞論説委員による吉田の紹介記事が掲載されたが、それは以下のようなことばで結ばれている。

マスコミに吉田さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。それが心配になってたずねると、吉田さんは腹がすわっているのだろう。明るい声で「いえ、いえ、もうかまいません」といった。〈畠〉

朝日新聞と宮沢政権による対韓謝罪

慰安婦問題は、1992年に日韓の外交問題にまで発展した。宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであった。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制(forced prostitution)を初めて認めた」との記事を掲載した。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ、1月16日には天皇の人形が焼かれるなど反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束した。

秦郁彦による済州島現地調査

1992年(平成4年)3月には秦郁彦が吉田の証言について済州島で現地調査を行ったが、裏付けが取れなかったどころか当時を知る城山浦の島民から「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」「男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかった」との証言を得た。秦は、済州新聞記者の許栄善との面談の折、許から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ答えに窮したという。

また秦は、当時、吉田証言の番組を企画したが、結局番組が制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由を問い合わせたところ、番組担当者が吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田の著作を刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画を中止したとの証言を得た。

秦はこれらの調査を産経新聞 1992年平成4年)4月30日で発表、『正論』1992年(平成4年)6月号にも調査結果を公表した。この論文は『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)にも掲載し、菊池寛賞を受賞した。その著書の中で吉田を「職業的詐話師」と称している。

吉田による謝罪

1992年5月25日、朝日新聞は、吉田清治が韓国に「謝罪の旅」に出る予定と紹介した。8月13日には、吉田は韓国で元慰安婦の金学順と面会し、土下座して謝罪した。吉田は訪韓し、韓国のマスコミに在日韓国人慰安婦5000人に民族的誇りを与えるため大統領選投票権を与えてほしいと請願した。

1992年12月25日には釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まる(2003年最高裁で敗訴確定)。

1993年、韓国政府は日本政府に日本の教科書に慰安婦について記述するよう要求し(歴史教科書問題参照)、1993年6月30日には、日本の高校日本史検定済み教科書七社九種類のすべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載されることがわかった。

上杉聰・吉見義明による見解

1993年5月に、慰安婦制度を批判している吉見義明が吉田を訪ね秦らの批判に積極的に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」としたうえで「回想には日時や場所を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないと吉見は確認した。

また、上杉聰吉見義明とともに吉田と面談した結果、「吉田の証言を嘘と断定することはできないが、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない」としている。

吉田清治本人による証言否定

吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認めた。

1996年(平成8年)5月2・9日付の週刊新潮インタビューで吉田は以下にように語った。

まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号

と語り、自らの証言を創作フィクション)を含むものであることをあらためて発言した。

1998年9月2日に秦郁彦は、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという。

吉田がその著書中から事実と主張する部分と創作の部分とを分離修正せず放置したため、検証が不可能であるために、2007年(平成19年)現在では吉田証言が強制連行の存否において信頼できる証拠として採用されることは、ほぼなくなった。

朝日新聞による発表

朝日新聞1997年3月31日に吉田の「著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」との記事を掲載したが、訂正記事は出さなかった。

影響と評価

現在の所、慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言は吉田清治による吉田証言のみとされているが、その吉田証言はその信憑性が疑問視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつあるが、2012年にも朝鮮日報が強制連行の証拠として報じている。

吉田証言は初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲板倉由明上杉千年らの歴史学者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると指摘されたため、旧日本軍による「強制連行」は捏造だと批判された。これに対して日本軍による強制連行があったとする吉見義明が反論したらどうかと吉田にいったところ、すべてが事実ではないと吉田が語ったため、吉見も証言としては採用できないと確認した。また日本の戦争責任資料センター事務局長の上杉聰も同じく証言として採用できないとした。

1996年に猪瀬直樹は「それにしてもたった一人の詐話師が、日韓問題を険悪化させ、日本の教科書を書き換えさせ、国連に報告書までつくらせたのである。虚言を弄する吉田という男は、ある意味ではもう一人の麻原彰晃ともいえないか」と述べている。

李栄薫ソウル大学教授は2009年6月1日に、吉田証言は今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与したと語っている。

また、歴史学者の安丸良夫は吉田の著作が「従軍慰安婦」「強制連行」の典型的なイメージを作り出すとともに、その後「この書物の記述が事実でないことが明らかにされて、『強制連行』をめぐる事実認識が重要な争点となる原因をつくった」と2009年に語っている。

吉田証言を事実として記載した著作物


韓国政府調査による証拠採用

1992年7月31日の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書を証拠として採用し、その後も修正していない。

クマラスワミ報告での証拠採用

また1996年の国連のクマラスワミ報告でも吉田証言は強制連行の証拠として採用されている。

米国下院対日謝罪決議案の報告書における証拠採用

2006年に米国下院が慰安婦問題で対日非難決議(アメリカ合衆国下院121号決議)案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書(2006年4月10日付)でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された。

日本側の調査と報告を受けて、2007年の改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としていた。

安倍晋三首相による発言

2007年安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している。

2012年の朝鮮日報による評価

2012年9月5日にも韓国最大発行部数を誇る朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として再び強制連行の証拠であると主張している。

主な著作

吉田証言の実地調査を行なった人物

参考文献

  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)
  • 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年。

関連項目