ソビエト連邦

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'''ソビエト社会主義共和国連邦'''(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、[[1917年]][[3月12日]]の[[ロシア革命]]を受けて誕生し、[[1991年]]を以って崩壊した[[連邦]]国家である。略称は'''ソビエト連邦'''(ソビエトれんぽう)、'''ソ連'''(ソれん)、'''蘇連'''(それん)など。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。 == 概説 == 世界初の[[社会主義国]]であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後には[[アメリカ合衆国]]と双璧を成す[[超大国]]であった。[[1991年]]の年の瀬に[[連邦]]は解体され、構成国は独立した。 [[首都]]は[[モスクワ]]。[[国旗]]のデザインは、[[革命]]を意味する赤地に、労働者と農民のシンボルである[[鎌と槌]]を交差させ、その上に[[五大陸]]の労働者の団結を意味する[[赤い星|五芒星]]を配した。 === 国名 === 正式名称は、[[ロシア語]]で '''{{Lang|ru|Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик}}'''([[ラテン文字化|ラテン文字表記]]の例: ''{{lang|la|Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik}}'' <small>サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク</small>)。略称は '''{{Lang|ru|СССР}}'''(''{{lang|la|SSSR}}'' <small>エス・エス・エス・エール</small>)。通称、'''{{Lang|ru|Сове́тский Сою́з}}'''(''{{lang|la|Sovétskij Sojúz}}'' <small>サヴィェーツキイ・サユース</small>)。 [[英語]]表記は '''{{lang|en|Union of Soviet Socialist Republics}}'''。通称'''{{lang|en|USSR}}'''。[[英語圏]]では {{lang|en|Soviet Union}} と呼ぶことが多かった。 [[日本語]]表記は、'''ソビエト(蘇維埃)社会主義共和国連邦'''。通称、'''ソビエト連邦'''(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」「ソヴェート」とも)。略称は'''ソ連邦'''、'''ソ連'''、または単に'''ソビエト'''。[[第二次世界大戦]]前は'''ソ同盟(蘇同盟)'''と訳されることが多かった。しかし、ソ連自体が「{{lang|ru|Союз}} とは {{lang|ru|Федерация}} (連邦)である」と説明していたこと、また戦後に開かれた在日ソ連大使館が「連邦」の訳語を使用したことから、戦後は専ら「連邦」と訳されるようになった。[[ソビエト]]とはロシア語で「評議会」の意。[[名詞|固有名詞]]([[地名]])を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和[[国名]]には地名が入る)、そのために『連邦』という言葉を常につけていると思われる(固有名詞であるロシア連邦は単にロシアと呼んでいる)。[[ドイツ]]の連邦も「同盟」を意味する「Bund」が採用されており、[[欧州連合]]も「同盟」であるにも関わらず、「連合」と呼ばれており、ソビエト連邦だけに言えることではない。略称として「ソ連邦」という場合もある。 英語圏以外の[[西側諸国]]においては一般的には旧国名の'''ロシア'''(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く{{fact}}、日本は'''ソ連、ソビエト'''という呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では「労農ロシア」などとも呼ばれた)。[[中国語]]を使用する[[漢字文化圏]]においても「蘇聯」と呼ばれる。また、東欧諸国など[[東側諸国]]では「ソビエト連邦」に相当する名称で呼ぶことが普通であった。 == 歴史 == === ロシア革命 === {{Main|ロシア革命}} [[Image:Lenin-office-1918.jpg|thumb|left|220px|ウラジーミル・レーニン]] [[ペトログラード]]の[[デモ行進|デモ]]に端を発する[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|2月革命]]後、漸進的な改革を志向する[[ロシア臨時政府|臨時政府]]が成立していたが、[[第一次世界大戦]]での[[ドイツ軍]]との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。 同年8月に[[ラーヴル・コルニーロフ]]将軍による反乱が失敗した後、[[ボリシェヴィキ]]に対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の[[列強]]による[[干渉戦争]]や[[ロシア内戦|内戦]]にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは[[1919年]]に共産党と改称した。 === 誕生 === [[Image:Stalin-Lenin-Kalinin-1919.jpg|thumb|left|220px|レーニン(中)、カリーニン(右)、スターリン(左)]] [[1922年]]に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、'''ソビエト社会主義共和国連邦'''が成立した。しかし、その僅2年後の[[1924年]]1月、[[ウラジーミル・レーニン]]死去。 レーニンの死後、独裁的権力を握った[[ヨシフ・スターリン]]は、政敵である[[レフ・トロツキー]]の国外追放(その後トロツキーは[[亡命]]先の[[メキシコ]]で、スターリンが送り込んだ[[刺客]]により[[暗殺]]された)を皮切りに、反対派を徹底的に[[粛清]]して、自らを頂点とした'''一国社会主義路線'''を確立した。 [[1926年]]には、[[ソビエト刑法]]が成立した。[[全体主義]]から[[罪刑法定主義]]を排除し、社会主義に有害な行為は全て犯罪となり、犯罪者は刑罰でなく[[社会防衛処分]]に付されるとされた。[[ナチス]]刑法がこれに類似する。この刑法は[[1960年]]に改正されるまで、人民は元より共産党員にも猛威を振るった<ref>中山研一「ソビエト刑法」P.266</ref>。 [[1928年]]から行われた[[第一次五ヶ年計画]]の中核に置かれた[[コルホーズ]]が代表する、強引な[[農業]]集団化に伴う「[[クラーク (富農)]]」絶滅計画や[[飢饉]]によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。[[1929年]]7月には[[満州]]に侵攻し([[中東路事件]])、中華民国軍を破りると[[12月22日]]にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めた。 無理な農業集団化の強行により、[[1932年]]から[[1933年]]には大飢饉が起こり、500万人とも1,000万人とも言われる[[餓死|餓死者]]が出た。 特に[[ウクライナ]]における飢餓([[ホロドモール]])は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。[[2006年]]にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対する[[ジェノサイド]]と認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧のために意図してなされたものであると言う説も有力である。集団化に反対した人々は、[[白海・バルト海運河]]の建設現場の[[グラグ]]へ送られるなどにより命を落とした。 この頃から[[世界恐慌]]により多くの[[資本主義|資本主義国]]が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに世界最高の経済成長を達成したが、その経済成長は農業を軽視した極端な「超工業化」であり、[[政治犯]]や思想犯を中心とした[[強制労働]](実質的な[[奴隷制度]])に支えられていた面もあり、その富は共産党の上層部に集中して配分された。 スターリン時代の[[大粛清]]時(ピークは[[1936年]]から[[1938年]])には[[裁判]]を経ずに、多くの党員や軍人、国民が[[死刑]]もしくは[[流罪]]などにより[[粛清]]されたとされる。この頃には、流罪の受け入れ先として大規模な[[ラーゲリ|強制収容所]]([[シベリア]]の[[コルィマ鉱山]]など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、[[1930年代]]に「[[反革命罪]]」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大すると見られる)。 === 第二次世界大戦 === [[Image:MolotovRibbentropStalin.jpg|thumb|220px|left|独ソ不可侵条約に調印する[[ヴャチェスラフ・モロトフ]](後列中央は[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]とスターリン)]] 政権を掌握した[[ヨシフ・スターリン]]は、[[ポーランド]]や[[ルーマニア]]などの[[東ヨーロッパ]]諸国を[[社会主義]]化し、自国の[[衛星国]]として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]やその同盟国である[[イギリス]]などの「[[帝国主義]]」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。 しかし[[1930年代]]に入ると、[[ドイツ]]に「共産主義打倒」を掲げた[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を握り、同じくポーランドや[[チェコスロバキア]]などのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。 しかし[[1939年]]、それまで敵対していた[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチスドイツ]]と[[独ソ不可侵条約]]を結び、同年のドイツの[[ポーランド侵攻]]の際には[[ソ連・ポーランド不可侵条約]]を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分([[ガリツィア]]など)を占領した。また[[バルト三国]]に圧力をかけ、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは[[収容所]]送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連は[[ルーマニア]]に[[ベッサラビア]]を割譲するように圧力をかけ、[[1940年]]6月にはソ連軍がベッサラビアと北[[ブコビナ]]に進駐し、[[領域 (国家)|領土]]を割譲させた。さらに隣国の[[フィンランド]]を[[冬戦争]]により侵略して[[カレリア]]地方を併合した。 [[1941年]]6月に[[独ソ戦]]いわゆる「[[大祖国戦争]]」が開始され、その結果ソ連はフィンランド侵略で国連から追放されていたが「'''[[ドイツ国防軍|敵]]の[[ソビエト連邦軍|敵]]は味方'''」の理屈でアメリカ・イギリスから[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側として[[第二次世界大戦]]に参戦する許可を受けた。[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られた他、[[レニングラード包囲戦|レニングラード攻防戦]]や[[クルスクの戦い]]等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、[[日ソ中立条約]]による[[日本軍]]の不参戦や[[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のお陰もあり、最終的にドイツの首都である[[ベルリン]]を陥落させ勝利した。独ソ戦では2000万以上のソ連人が犠牲になるほどの戦いに勝利した。 その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約{{要出典}}を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進し[[アメリカ軍]]に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく[[占領]]することができ、その後の[[ドイツの歴史#東西ドイツ|東西ドイツ分割]]を招くこととなった。 なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった[[日本]]([[大日本帝国]])に対しては、連合国首脳による[[ヤルタ会議]]における密約([[ヤルタ協定]])に基づき、大戦末期の[[1945年]][[8月8日]]になって不可侵条約を一方的に破棄し、[[ソ連対日宣戦布告|日本に宣戦を布告]]をし[[千島列島]]や[[樺太|南樺太]]、[[満州国]](現在の[[中華人民共和国]]東北部)、[[朝鮮半島]]北部に侵攻した。[[1945年]][[8月14日]]、[[中ソ友好同盟条約]]を締結する。 この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの[[捕虜]]を自国内に連行し、劣悪な状況下で[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備等の労働力として酷使したため、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった([[シベリア抑留]])。これらの[[国際法]]を無視した行為とその後の対応が後の[[北方領土]]問題、[[シベリア抑留]]問題の原因となった。 第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合した[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]の[[バルト三国]]への支配、[[ルーマニア]]から獲得した[[ベッサラビア]](現在の[[モルドバ]])の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりに[[ロシア人]]を移住させた。 また、[[極東]]では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧[[満州]]に持っていた各種権益のうち、[[関東州]]の[[旅順]]・[[大連市|大連]]の両港の[[租借地|租借権]]や旧[[東清鉄道]]([[南満州鉄道]]の一部)の管理権の継承を[[中華民国]]に認めさせた。 ソビエト連邦は連合国として参加した事で勝利し、国連の[[常任理事国]]となった。 === 冷戦の開始 === [[ファイル:Joseph Stalin and Nikita Khrushchev, 1936.jpg|right|220px|thumb|フルシチョフとスターリン]] [[ファイル:Checkpoint Charlie 1961-10-27.jpg|right|220px|thumb|[[ベルリン]]のチェックポイント・チャーリーで対峙するソ連軍とアメリカ軍の戦車]] 戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、[[スターリニズム|スターリン主義]]的な[[社会主義]]政権を導入しこれらをソ連の[[衛星国]]とした。[[ワルシャワ条約機構]]などにおける[[東側諸国]]のリーダーとして、[[アメリカ合衆国]]をリーダーとする[[資本主義]]([[西側諸国]])陣営に対抗した。 [[1953年]]に死去したスターリンの死後新たな指導者となった[[ニキータ・フルシチョフ]]は[[スターリン批判]]を行い、その行過ぎた[[全体主義]]的独裁の政策を大幅に緩めた。しかし、ソ連が極端な[[警察国家]]、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、[[砂漠化]]が進み、結果、ソ連は[[食料]]を海外から輸入しなければならなくなった。 なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入してこれを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した([[ハンガリー動乱]]、[[プラハの春]]など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。 また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接[[戦争]]こそ生じなかったものの、[[ベルリン封鎖]]などの有形無形の敵対行動や[[朝鮮戦争]]や[[ベトナム戦争]]などの世界各地での[[代理戦争]]という形で[[冷戦]]と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、[[核兵器]]の開発競争は世界を[[核戦争]]の危機に晒すものだった([[1962年]]の[[キューバ危機]]など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年の[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の経緯が物語っている。[[原子炉]]構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、[[プリピャチ]]市民は[[放射線]]の恐怖をほとんど知らずに日常の日と変わらずに[[日光浴]]や[[散歩]]をする者さえいた。 [[1960年代]]に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の土着化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった[[毛沢東]]率いる[[中華人民共和国]]との関係は国境地帯における軍事衝突([[中ソ国境紛争|ダマンスキー島事件]])や[[北京市|北京]]のソ連[[大使館]]襲撃事件が起こるなど逆に悪化した([[中ソ対立]])。 === 国力の衰退 === [[ファイル:Carter Brezhnev sign SALT II.jpg|right|220px|thumb|ブレジネフ(右)とアメリカの[[ジミー・カーター]][[大統領]]]] その後[[1964年]]に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派の[[レオニード・ブレジネフ]]が指導者となると国内問題を放置することが多くなり、[[官僚]]の[[特権階級化]]など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の[[配給]]が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、[[改革開放]]を始めた中国を除いて東側諸国全体の[[経済]]が70年代後半から停滞していき、ソ連ではかつては10%を誇った成長率もほころびを見せ、崩壊の直前は[[国内総生産|GNP]]も日本に抜かれて三位となる。 [[1979年]]にブレジネフは、隣する[[アフガニスタン]]の共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしたために[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]を行ったものの、結果的に[[パキスタン]]、[[サウジアラビア]]、[[イラン]]等といった一部の[[イスラム世界|イスラム諸国]]および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われた[[モスクワオリンピック]]の大量[[ボイコット]]を招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きにわたり浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ傾きかけていた経済をますます圧迫する結果になった。 また、アメリカの[[ロナルド・レーガン]]政権からは「[[悪の帝国発言|悪の帝国]]」と名指しで批判され、さらなる[[軍拡競争]]で闇経済が蔓延、財政赤字が拡大する。 === ペレストロイカ === [[ファイル:Reagan and Gorbachev signing.jpg|thumb|right|220px|ミハイル・ゴルバチョフと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロナルド・レーガン]][[大統領]]]] [[1982年]]に死去したブレジネフの後継者となった[[ユーリ・アンドロポフ]]、アンドロポフの死後に後継者となった[[コンスタンティン・チェルネンコ]]と老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せなかった。 その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、[[1985年]][[3月]]に誕生した[[ゴルバチョフ]]政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、[[ペレストロイカ]](改革)と[[グラスノスチ]](情報公開)を推し進めた。 これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した[[政治体制]]の改革が進められ、[[1989年]][[3月26日]]にはソ連初の民主的選挙である第1回[[人民代議員大会]]選挙が実施された。またソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、[[1990年]]には[[ソ連共産党]]による[[一党独裁制]]の放棄、そして[[複数政党制]]と[[大統領制]]の導入が決定され、同年[[3月15日]]人民代議員の投票により初代大統領に[[ゴルバチョフ]]が選出された。また同時期に当局の[[検閲]]を廃止した[[新聞法]]が制定された。しかしこれらの一連の政治改革は一定の成果を上げた半面、改革の範囲やスピードを巡って[[ソ連共産党]]内の保守派と急進改革派との内部抗争を激化させ、民族問題の先鋭化と各共和国の[[主権]]拡大を要求する動きを生み出した。また政治面と比較して経済面では改革の成果は上がらず、深刻な経済危機を招いたとして国民の[[ゴルバチョフ]]政権への不満を増大させる要因となった。 [[1988年]]からは[[ナゴルノ・カラバフ自治州]]の帰属を巡って[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア]]共和国と[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]共和国との間に大規模な紛争が発生、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]共和国や[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国|モルドバ]]共和国内でも民族間の衝突が起きた。また[[1990年]][[3月11日]]年には反ソ連の急先鋒と見られていた[[バルト3国]]の[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国|リトアニア]]共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し宣言を撤回させたものの同年[[3月30日]]には[[エストニア・ソビエト社会主義共和国|エストニア]]共和国が、[[5月4日]]には[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国|ラトビア]]共和国が独立を宣言した。[[1990年]][[5月29日]]にはロシア共和国[[最高会議]]議長に急進改革派の[[エリツィン]]が当選、同年[[6月12日]]には[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア]]共和国が、[[7月16日]]には[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという主権宣言を行い各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きはゴルバチョフ自身が推進した[[ペレストロイカ]]、[[グラスノスチ]]によって引き起こされたと言える半面、連邦議会で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国議会に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派[[エリツィン]]が就任したことは大きな意味を持っていた(ただしエリツィン自身は連邦制維持に賛成であった)。 従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、[[主権国家]]の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる[[新連邦条約]]を締結するため各共和国との調整を進めた。[[1991年]][[3月17日]]には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う[[国民投票]]が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった(共和国別では[[ロシア・ソビエト社会主義共和国|ロシア]]共和国で71%、[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]共和国で70%、[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア]]共和国で83%、[[カザフ・ソビエト社会主義共和国|カザフ]]共和国で94%、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国|ウズベク]]共和国で90%、[[キルギス・ソビエト社会主義共和国|キルギス]]共和国で95%、[[タジク・ソビエト社会主義共和国|タジク]]共和国で96%、[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国|トルクメン]]共和国で98%、[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン]]共和国で93%が連邦制維持に賛成票を投じた。ただし独立志向を強めていた[[バルト三国]]、[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア]]共和国、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア]]共和国、[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国|モルドバ]]共和国の6つの[[共和国]]では投票はボイコットされた)。この国民投票の結果を受け[[4月23日]]、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9つの共和国の元首が集まり、その後各共和国との間に[[新連邦条約]]を締結し、[[連邦]]を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでのソビエト社会主義共和国連邦から社会主義の文字を廃止し、主権ソビエト共和国連邦に変更することも決定された。また国民投票と同じ日にロシア共和国では同共和国への大統領制導入の是非を問う国民投票が行われ投票者の69.9%がこれを支持、同年[[6月12日]]に[[1991年ロシア大統領選挙|ロシア共和国大統領選挙]]が実施されエリツィン・ロシア共和国最高会議議長が当選し、[[7月10日]]就任した。 === 冷戦終結 === [[東欧]]ではゴルバチョフが推進する国内改革と衛星国に対する支配の緩和を受けて、[[1989年]]から1990年にかけて[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]や[[ハンガリー]]、[[ポーランド]]や[[チェコスロバキア]]などの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、[[ルーマニア]]では一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきた[[ニコラエ・チャウシェスク]]大統領が改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。 なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きた[[ハンガリー動乱]]や[[プラハの春]]の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。 ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて[[1989年]][[12月2日]]から[[12月3日]]にかけて[[地中海]]の[[マルタ]]でゴルバチョフと[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が会談し、正式に冷戦の終結を宣言した([[マルタ会談]])。 [[ファイル:Bush and Gorbachev at the Malta summit in 1989.gif|thumb|220px|right|マルタで会談する[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領(手前右)と[[ゴルバチョフ]](手前左)]] === 崩壊 === 国内では[[1991年]][[8月20日]]の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧した[[ゲンナジー・ヤナーエフ]]や[[ウラジーミル・クリュチコフ]]ら8人の[[ソ連共産党]][[ソ連共産党政治局|中央委員会]]メンバーらによって条約締結を目前に控えた[[8月19日]]に[[ソ連8月クーデター|クーデター]]が発生、ゴルバチョフを軟禁し条約締結阻止を試みたものの、[[ボリス・エリツィン]]ら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカや[[フランス]]、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった(→[[ソ連8月クーデター]])。 クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕され、ゴルバチョフと[[ソ連共産党]]の権威は失墜した。[[8月24日]]ゴルバチョフはソ連共産党[[書記長]]を辞任し同時に[[ソ連共産党政治局|ソ連共産党中央委員会]]の解散を勧告、[[8月28日]]ソ連[[最高会議]]はソ連共産党の活動を全面的に禁止し同党は事実上の解体に追い込まれた。連邦を統制してきたソ連共産党が解体されたことにより、これ以後実権はゴルバチョフ・ソ連[[大統領]]と各共和国の元首から構成される[[国家評議会]]に移っていくことになる。 [[9月6日]]国家評議会は[[バルト三国]]独立を[[国家の承認|承認]]した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、[[11月14日]]ロシア共和国も含めた7つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意した。しかし[[12月1日]]にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していた[[エリツィン]]・ロシア共和国大統領もウクライナが加盟しない主権国家連邦は無意味であるとして、[[12月3日]]にこれを承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。同年[[12月8日]]の[[ベロヴェーシ合意]]において、ロシア、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]共和国が独立して[[独立国家共同体]](CIS)を創設、残る諸国もそれに倣ってCISに加入した。[[12月17日]]ゴルバチョフ大統領は[[1991年]]中に連邦政府が活動を停止することを宣言、[[12月21日]]グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議した[[アルマアタ宣言]]を採択、これを受けて[[12月25日]]ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、翌[[12月26日]]には[[最高会議]]も連邦の解体を宣言し、[[ソ連崩壊|ソビエト連邦は崩壊した]]。 == 地理 == {{USSR}} ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接している国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、アメリカ大陸など幅が広い。陸だと隣接する国は西は[[ノルウェー]]、[[フィンランド]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]、南は[[トルコ]]、[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[モンゴル]]、[[中華民国]]([[1949年]]以降は[[中華人民共和国]])、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]([[1948年]]以降)、海だと南は[[日本]](1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮半島で国境を接していた)、東は[[アメリカ合衆国]]である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は[[北極海]]に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、強制労働で多くの命が失われた。自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、[[シベリア鉄道]]は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニンからの方針により電化が進んでおり軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。 長い[[国境]]のうちにはいくつかの[[領土問題]]を抱えており、[[1960年代]]には軍事紛争(中華人民共和国との間における[[中ソ国境紛争|ダマンスキー島事件]])になったケースもある。[[海]]を隔てた隣国の1つである日本とは[[北方領土|北方領土問題]]を持っており、この問題は[[ロシア]]になった現在も続いており解決されていない。また[[フィンランド]]にも[[カレリア]]地域の問題が残されている。 また旧ソ連はヨーロッパとアジアを跨ぐ国であったことから[[ユーラシア]]や[[北アジア]]と呼ばれていることが多い。なお、サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパだとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアも加盟しており、全くこれは論拠にならない。なお、ソ連時代に所謂[[公用語]]も存在しなかった。すなわち[[ロシア語]]はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。 === 構成国 === ('''''[[ソビエト連邦構成共和国]]'''''も参照) {| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" style="font-size:90%;" class=wikitable |- !加盟年 !国名 !ソ連解体後 !誕生 |- | rowspan="4" style="white-space:nowrap;"| 1922年 |[[ウクライナ社会主義ソビエト共和国]] |[[ウクライナ]] | |- |[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]] |[[ベラルーシ]] | |- |[[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国]] |1936年連邦解散 | |- |- |[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] |[[ロシア]] | |- | rowspan="2"| 1924年 |[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]] |[[ウズベキスタン]] | |- |[[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]] |[[トルクメニスタン]] | |- |1929年 |[[タジク・ソビエト社会主義共和国]] |[[タジキスタン]] |ウズベクから分割 |- | rowspan="5"| 1936年 | style="white-space:nowrap;"| [[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]] |[[アゼルバイジャン]] |rowspan=3|ザカフカースを解散 |- |[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]] |[[アルメニア]] |- |[[グルジア・ソビエト社会主義共和国]] |[[グルジア]] |- |[[カザフ・ソビエト社会主義共和国]] |[[カザフスタン]] |rowspan=2|ロシアから分割 |- |[[キルギス・ソビエト社会主義共和国]] |[[キルギスタン]] |- | rowspan="5"| 1940年 |[[カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国]] |1956年ロシアの自治共和国に降格 |ロシアの一部と[[フィンランド]]の一部を合併 |- |[[エストニア・ソビエト社会主義共和国]] |[[エストニア]] | rowspan="4"| |- |[[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]] |[[モルドバ]] |- |[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国]] |[[ラトビア]] |- |[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]] |[[リトアニア]] |} なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が[[憲法]]で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた[[法律]]はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた[[連邦離脱法]]は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することとなる。 また、[[国際連合]](国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠で[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ|白ロシア(現・ベラルーシ)]]が独自に加盟していた。 === 代表的な都市 === [[ファイル:Yuri Vladivostok 20030804 118.jpg|thumb|220px|right|ウラジオストク]] [[ファイル:StBasile SpasskayaTower Red Square Moscow.hires.jpg|thumb|right|220px|モスクワ]] [[ファイル:WinterPalaceAndAC.jpg|thumb|right|220px|サンクトペテルブルグ]] * [[アンガルスク]] * [[ヴォルゴグラード|スターリングラード]](現ヴォルゴグラード) * [[イルクーツク]] * [[ウファ]] * [[ウラジオストク]] * [[エカテリンブルク|スヴェルドロフスク]](現エカテリンブルク) * [[オムスク]] * [[カザン]] * [[キーロフ]] * [[クラスノヤルスク]] * [[ビシュケク|フルンゼ]](現ビシュケク) * [[サマーラ|クイビシェフ]](現サマーラ) * [[モスクワ]] * [[サンクトペテルブルグ|レニングラード]](現サンクトペテルブルグ) * [[タイシェト]] * [[タシュケント]] * [[チェリャビンスク]] * [[チタ]] * [[チュメニ]] * [[トビリシ]] * [[ブラゴヴェシチェンスク]] * [[ナホトカ]] * [[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキイ]](現ニジニ・ノヴゴロド) * [[ノヴォシビルスク]] * [[ハバロフスク]] * [[ペルミ]] * [[ロストフ]] === 汚染地域 === ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、[[ゼルジンスク]]、[[ノリルスク]]、スムガイト(現在は[[アゼルバイジャン]])、[[チェルノブイリ]](同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。特に[[チェルノブイリ原発事故]]は欠陥工事の影響で広島型原爆の約1000発分の放射能がまき散らされ、その被災者が550万人なのでその凄まじさが理解できる<ref>当初ソ連政府は徹底とした隠蔽工作を行い汚染食品を流通させてしまい、タス通信では全体では500万人でその内ウクライナでの被爆者は故で約350万人で、うち120万人が子供であり、過去19年間に事故の影響で150万人のウクライナ人が死亡した。今なお汚染された土地に住む人が600万人おり、放射能を含んだ食料を食べ続け病気になって苦しんでいる。ソ連からの補償はごくわずかで、放射能が原因での奇形児や身体障害者は経済的な理由で多くが親に捨てられてしまうケースが多い。</ref>。また[[核実験]]場のあった[[セミパラチンスク核実験場|セミパラチンスク]](現在は[[カザフスタン]]・[[セメイ]])では120万人が死の灰を受け30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。 == 政治 == === 一党独裁制 === [[ファイル:Kremlim Wall-Moscow.jpg|thumb|right|220px|[[クレムリン]]]] 間接代表制を拒否し、労働者の組織「[[ソビエト]]」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位([[最高ソビエト]])まで組織されることで[[国家]]が構成されていた。 但し、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)である[[ソビエト連邦共産党]]が全てのソビエトを支配しており、[[一党独裁制]]の[[国家]]となっていた(但し、[[ロシア革命]]直後の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]時代初期と[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]時代に[[複数政党制]]であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。 この[[細胞 (政党)]]を張り巡らせる[[民主集中制]]と[[計画経済]]を基礎とするいわゆる[[ソ連型社会主義]]と呼ばれる体制は、[[党官僚|アパラチキ]]('''器官'''の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、[[カール・マルクス]]が唱えた[[社会主義]]の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者が[[ロマノフ朝]]の[[皇帝]]から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的最高指導者である書記長は「'''赤色皇帝'''」とも呼ばれる。 なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、[[国家元首]]は[[最高会議幹部会議長|ソビエト最高会議幹部会議長]]であったが、実権はソビエト連邦共産党の[[書記長]]にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。 === 司法裁判 === 建国者のレーニンは秘密警察の[[チェーカー]]を設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実質レーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェカーの無差別な処刑は反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げて処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と理由で一家共々処刑を行うなど法に対する姿勢が杜撰であったために、歴史家[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]は「ボリシェビキが法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。 スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、[[スターリン主義]]のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェカーを改名した[[ゲーペーウー|GPU]](ゲーペーウー)を用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。GPUは[[KGB]]に引き継がれた。 [[ナジ・イムレ]]は[[ハンガリー動乱]]で民主化運動を起こしたために、KGBによる秘密裁判で絞首刑に処された。 東欧革命やソ連崩壊で旧共産圏のあちこちにKGBの残虐さを伝える博物館が建設された。 スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕または[[亡命]]を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が[[1997年]]に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命[[日本人]]も含まれているが、[[日本の政治|日本政府]]は[[謝罪]]や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。 === 歴代指導者 === {{Main|ソビエト連邦の指導者の一覧}} * [[ウラジーミル・レーニン]] (1917-1924) * [[ヨシフ・スターリン]] (1924-1953) * [[ゲオルギー・マレンコフ]] (1953) * [[ニキータ・フルシチョフ]] (1953-1964) * [[レオニード・ブレジネフ]] (1964-1982) * [[ユーリ・アンドロポフ]] (1982-1984) * [[コンスタンティン・チェルネンコ]] (1984-1985) * [[ミハイル・ゴルバチョフ]] (1985-1991) == 外交関係 == {{Main|ソビエト連邦の外交関係}} [[ファイル:CommunistBlock.png|thumb|300px|赤が社会主義国、薄い赤がその影響下にある国]] [[ファイル:ViewOnRussianMinistryOfForeignAffairsMuilding,Moscow,Russia,2003-05-09.jpeg|thumb|220px|right|ソビエト外務省ビル]] [[ファイル:Poster26.jpg|thumb|220px|中国共産党の[[毛沢東]]との友好関係を描くポスター]] 外交関係では、社会主義国([[東側諸国|東側]])陣営の盟主として[[アメリカ合衆国]]を筆頭とする[[資本主義]]国([[北大西洋条約機構|西側]])と対決([[冷戦]])していた。 成立当初は孤立したが、[[独ソ戦]]で侵攻してきた[[ドイツ]]を撃退・打倒した[[第二次世界大戦]]後に、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]や[[チェコスロバキア]]、[[ブルガリア]]などの[[東ヨーロッパ]]諸国を[[衛星国]]化させた。さらに[[ユーゴスラビア]]が主導する[[非同盟]]諸国と呼ばれる[[中華人民共和国]]・[[インド]]・[[キューバ]]・[[エチオピア]]・[[エジプト]]・[[イラク]]・[[シリア]]といった[[第三世界]]と友好協力条約を結び、関係を持つ。[[経済相互援助会議|コメコン]]では[[メキシコ]]、[[モザンビーク]]、[[フィンランド]]といった非社会主義協力国もあった。[[東アジア]]([[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]など)、[[ラテンアメリカ|中南米]]([[ペルー]]や[[チリ]]、[[ニカラグア]]など)、[[アフリカ]]([[アンゴラ]]、[[リビア]]、[[コンゴ]]など)などでも「民族解放」、「反[[帝国主義]]」、「植民地独立」を唱える共産主義独裁政権の成立に協力し、アメリカや[[西ドイツ]]、[[イギリス]]や[[フランス]]などの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。 === 対社会主義陣営 === ==== 中華人民共和国との関係 ==== ソビエト連邦の軍事支援により、[[蒋介石]]率いる[[中国国民党]]との[[国共内戦]]に勝利した[[中国共産党]]によって[[1949年]]に設立された[[中華人民共和国]]とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や[[大使館]]乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。 1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの[[中ソ国境紛争]])や指導層の思想的な相違の問題から[[中ソ対立]]が表面化した。両国間のこのような対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である「[[文化大革命]]」が終結する1970年代後半まで続くことになる。 そのような中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、[[国交]]を結ぶと同時に[[中華民国]]との国交を断絶し、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだ。また中華人民共和国は、[[モスクワオリンピック]]と[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)]]では東側陣営であるのに関わらずアメリカ側についていた。独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、そしてゴルバチョフの訪中でソ連と中華人民共和国の関係も改善された。 === 対資本主義陣営 === ==== 日本との関係 ==== [[ロシア帝国|ロシア]]時代に[[日露戦争]]で戦い敗北した[[日本]]とは、ソビエト連邦成立後も[[満州国]]との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に[[日ソ中立条約]]が締結されたものの、[[ヤルタ会議]]において[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵攻を続け[[千島列島]]など日本の領土の一部を違法に占拠した。その上多くの日本人[[捕虜]]を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった([[シベリア抑留]])。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。 このような経緯による日本の反ソ感情に加え、[[吉田茂]]首相が米国との同盟関係を主軸とした外交を採用したことから日ソ関係はしばらく進展がなかったが、アメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する[[鳩山一郎]]へ政権が交代したことで国交正常化の機運が生まれ、[[1956年]]に[[日ソ共同宣言]]を出して国交を回復、日本の国連加盟が実現した。しかし日本がアメリカの同盟国で独立回復後も米軍駐留が続いたことや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。その一方で、政権与党の[[自由民主党]]所属の一部の議員は自主的にソ連とのパイプを持ち日ソ関係が完全に冷却することはなかった。[[北洋漁業]]、北洋材の輸入、機械や鉄鋼製品の輸出など両国の経済関係はソ連の崩壊に至るまで続いた。 なお、冷戦の最中には[[日本社会党]]や、ベトナム戦争に反対する[[ベトナムに平和を!市民連合|べ平連]]などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また同時に、自民党の国会議員にも様々な工作を仕掛けている。[[ソ連国家保安委員会]](KGB)などが中心となり[[大使館]]員などに偽装した多くの[[スパイ]]を政府内部や[[自衛隊]]などに送り込み、[[ラストボロフ事件]]などの数々の事件を起こした。 ソ連の樺太侵攻を描いた[[映画]]『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と[[外務省]]が映画の製作者側に圧力をかけ{{要出典}}、東宝系での公開が中止され、単館上映での公開のみとなった。 ==== アメリカとの関係 ==== [[ファイル:Tomcat escorts Bear.jpg|right|220px|thumb|[[ソ連空軍]]の[[Tu-95 (航空機)|Tu-95]]爆撃機を追う[[アメリカ海軍]]の[[F-14 (戦闘機)|F-14]][[戦闘機]]]] 共産主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「[[冷戦]]」という形で対立し、[[1950年代]]における朝鮮戦争や[[1960年代]]におけるベトナム戦争など、[[代理戦争]]という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。 しかし[[ベルリン封鎖]]や[[キューバ危機]]などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、[[U-2撃墜事件]]における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。 また、このような対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な[[国交]]が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、[[大韓航空機撃墜事件]]や[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガニスタン侵攻]]などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、[[スパイ]]事件などが明るみに出て、一方の[[外交官]]が[[ペルソナ・ノン・グラータ]]として国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。 === 外国渡航禁止 === 外国への個人的理由での渡航は、[[亡命]]と[[外貨]]流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側資本主義陣営からの攻撃材料となった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思がなくても[[外国]]で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。 また、西側諸国人との交際や[[結婚]]は多くの障害があり、幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも結婚は可能であったが([[石井紘基]]のナターシャ夫人など)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えた上、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側資本主義国に限らず、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の[[政治将校]]が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人・集団を問わずに絶えなかった。運良く移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれることが多く、決して安住の地とは言えなかった。 例外として、1950年代までの[[ユダヤ人]]の[[イスラエル]]出国がある。ソ連政府は[[パレスチナ]]でのイスラエル建国([[1948年]])を支持し、戦争からの復興途上にある自国から[[ユダヤ人]]を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、イスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。[[1967年]]の[[第三次中東戦争]]で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。 もう一つ、ソ連政府の意に沿わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展に害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これにより[[レフ・トロツキー]]や[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]はソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。 == 軍事 == {{Main|ソビエト連邦軍}} === 強力な軍事力 === [[ファイル:Delta-III_class_nuclear-powered_ballistic_missle_submarine_2.jpg|thumb|220px|[[デルタ級原子力潜水艦|667BDR号計画「カリマール」型原子力戦略潜水巡洋艦(NATOからデルタIII型原子力潜水艦と呼ばれた)]]]] [[ファイル:DD-ST-85-06549.JPEG|thumb|right|220px|ソビエト連邦軍の[[MiG-25_(航空機)|MiG-25PD]][[要撃機|迎撃戦闘機]]]] [[ファイル:Rifle_AK_MON.jpg|thumb|right|220px|ソ連から第三世界に最も多く輸出された武器[[AK-47]]]] アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、[[核兵器]]や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、[[大陸間弾道ミサイル]]や大陸間弾道ミサイルを搭載可能な[[原子力潜水艦]]、超音速戦闘機や[[戦車]]などを配備し、強力な軍事力を保持していた。 旧ソ連が製造した「[[ツァーリボンバ]]」は広島型原爆の約3300倍の威力の世界最強の爆弾である。 しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、その分[[インフラストラクチャー|インフラ]]や流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、[[1979年]]から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させソ連崩壊を早めたとされる。 また、[[大韓航空機撃墜事件]]のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。 === 軍事支援 === また、[[ワルシャワ条約機構]]の中心国となり、[[東ヨーロッパ]]諸国に[[基地]]を置き、[[ハンガリー動乱]]や[[プラハの春]]など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、[[キューバ]]や[[北ベトナム]]など、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。 それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワの[[パトリス・ルムンバ名称民族友好大学]]や各種軍施設などにおける[[スパイ]]や[[テロリスト]]の養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。 なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の[[金日成]]に対して事実上開戦を指示したと言われる。 また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、[[南アメリカ]]や[[アジア]]、[[アフリカ]]諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の[[反米]]運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。 {{Seealso|ロシア・ソ連の軍服}} == 科学技術 == [[ファイル:Soyuz ASTP rocket launch.jpg|thumb|right|220px|[[ソユーズ]]の打ち上げ風景]] [[航空宇宙技術]]では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた([[宇宙開発競争]])。人類初の[[人工衛星]]「[[スプートニク1号]]」の打ち上げ成功、[[ユーリ・ガガーリン]]による人類初の[[有人宇宙飛行]]の成功、[[宇宙ステーション]]「[[ミール]]」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、世界初の[[原子力発電所]][[オブニンスク]]を建設するなど、ソ連は人類の[[巨大科学]]に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎は、ソ連の[[コンスタンチン・E・ツィオルコフスキー]]が築いたものである。 また、[[航空機]]でもミコヤン・グレビッチ設計局([[MiG|ミグ]])、[[S・V・イリユーシン記念航空複合体|イリューシン]]設計局、[[ツポレフ]]設計局などによって独創的な機構が開発された。 これらの宇宙研究や原子力研究は、関係者以外の立ち入りを許さず、[[地図]]にも記載されない[[閉鎖都市]]で行われることがあった。 一方で、軍事面以外の研究では遅れが目立った。特にスターリン時代では、科学的見地よりイデオロギーが優先されることがしばしばであり、特に[[トロフィム・ルイセンコ|ルイセンコ]]の提唱した[[ルイセンコ論争|ルイセンコ理論]]等により、ソ連の農業は壊滅的な被害を受け、輸入国に転落した。 また、計画経済による工場の建設や開発は、時として実情を無視したものとなり、利益面や環境面で失敗することも度々であった。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な環境破壊が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。しかし、[[チェルノブイリ原発事故]]に代表されるような、官僚的な隠蔽体質はこれらの被害を表面上は覆い隠し、被害を拡大させた。特に[[アラル海]]の開発計画は20世紀最大の環境破壊と呼ばれる事態を引き起こした。また、時には土木工事等に「[[平和的核爆発|国家経済のための核爆発]]」が使用されることすらあった。 また官僚体制の硬直はブレジネフ時代以降特に顕著となり、進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカに対して10年単位の遅れを取るようになった。軍用の製品や技術を[[東芝]]や[[日立]]などの[[日本]]のメーカーから導入することもあった([[東芝機械ココム違反事件]])。[[半導体]]・[[集積回路]]技術でも大幅に後れを取り、西側のようにコンピュータの急速な進歩と普及を実現することは出来ず、ハイテク分野で決定的に立ち後れることとなった。<ref>但し、V.M.GlushkovらによってOGASが提唱されていた。</ref> == 経済 == {{main|ソビエト連邦の経済}} ソ連を成り立たせた経済モデルは、共産党が計画した[[ノルマ]]を労働者に課し、それを果たすというものだった。詳しくは[[ソ連型社会主義]]を参照。 === 計画経済 === [[ファイル:Poster32.jpg|thumb|right|220px|資本主義体制に対する社会主義体制の優越を描いたプロパガンダポスター]] {{main|計画経済}} 経済面では[[計画経済]]体制がしかれ、農民の集団化が図られた([[集団農場]])。医療費等が無料で税が全く無いことでも知られた。[[1930年代]]に[[世界恐慌]]で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は[[政治犯]]や[[思想犯]]を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。[[ジョン・ケネス・ガルブレイス]]は「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして[[完全雇用]]と[[社会保障]]をやってのけた」としながらも、1970年代には崩壊し始めたと総括している(しかし、1930年代当時のソ連経済の躍進の裏には、数百万人と言われる規模の強制労働従事者のほぼ無償の労働による貢献があったことを、ガルブレイスは見落としているか故意に無視していることに注意が必要である)。実際、[[1960年代]]以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。 また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。そのために闇市場のような[[闇経済]]や汚職が蔓延し、そのような中で[[共産貴族]]がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。[[毛沢東]]が[[大躍進政策]]で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。 === 消費財の流通 === [[ファイル:Lada 1200.jpg|thumb|right|220px|大衆車の[[ラーダ (自動車)|ラーダ]]1200]] 東西対立の世界構造の中で、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、[[冷蔵庫]]や[[洗濯機]]などの国民生活に必要な電化製品や、[[石鹸]]や[[洗剤]]、[[シャンプー]]などの一般消費財の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。 ほとんどの電化製品や[[自動車]]の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くが[[フィアット]]や[[パッカード]]などの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。 === 貿易 === 上記のように、[[電化製品]]や消費財、工作機械や[[自動車]]などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、[[農産物]]や[[魚介類]]などの[[第一次産業|第一次産品]]や、[[原油]]や[[天然ガス]]などの[[エネルギー資源]]が主であった。また、[[通貨]]の[[ルーブル]]自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。 [[ファイル:ГУМ.JPG|thumb|right|220px|モスクワの高級デパート「グム」]] それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、[[対共産圏輸出統制委員会|ココム]]などの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、[[航空機]]などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。 === 輸入消費財 === なお、西側諸国の電化製品や[[化粧品]]、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「[[グム]]」などの外貨専用の高級[[デパート]]で入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、[[マールボロ (タバコ)|マールボロ]]の[[タバコ]]や[[リーバイス]]の[[ジーンズ]]など多くの西側製品が闇ルートで流通していた。 === アメリカ合衆国との比較 === ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。国内総生産また一人当たりのGDPもアメリカの2また3分の1ほどであった。 国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。 1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。 ソ連は1950年代~1960年代初頭まで目覚しいペースでアメリカを追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服し、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達し、その後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大している。 しかしソ連崩壊後にロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは一人当たりにGDPと軍事費は大きく差をつけて、さらに経済混乱で最低限の生活をも保障されずに貧しさで苦しんだために、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを「アメリカに魂を売った売国奴」「裏切り者」と酷評する声も多い<ref>[http://www.eurus.dti.ne.jp/~freedom3/cccp-usa-coldwar1947-1991-sai-axx.htm]</ref>。 == 交通 == [[ファイル:Svo terminal 2.jpg|thumb|220px|right|モスクワの[[シェレメーチエヴォ国際空港]]]] 国民の自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったこともあり、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、[[高速道路]]や[[レンタカー]]などの自動車インフラは貧弱なままであった。 外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。 === 航空 === ==== アエロフロート ==== [[ファイル:IL-18-700px.jpg|thumb|220px|right|アエロフロート・ソビエト航空の[[S・V・イリユーシン記念航空複合体|イリューシン]][[Il-18 (航空機)|IL-18]]]] 広大な国土は主に[[航空機]]によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の[[航空会社]]である[[国営企業|国営]]の[[アエロフロート・ロシア航空|アエロフロート・ソビエト航空]]によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された[[滑走路]]が整備されていない地方[[空港]]への運行が可能なように、大型[[ジェット機]]から[[ターボプロップ]]機、小型[[複葉機]]まで様々な機材を運行していた。 ==== 国際線 ==== 同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバや[[アンゴラ]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。 また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、[[日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]、[[ルフトハンザ・ドイツ航空]]などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが[[東京]]([[羽田空港]]、[[成田空港]])、[[新潟市|新潟]]([[新潟空港]])とモスクワ、[[ハバロフスク]]、[[イルクーツク]]との間に定期便を運行していた。 === 鉄道 === [[ファイル:Moscow Metro Arbatskaja.jpg|thumb|220px|right|モスクワ市内の地下鉄駅構内]] [[シベリア鉄道]]を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワや[[レニングラード]](現:サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には[[地下鉄]]網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、スターリン時代に建設された一部の駅構内は[[宮殿]]のような豪華な装飾が施されていた。 === 自動車 === 個人による[[自動車]]の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような[[高速道路]]による国民の移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地には[[バス (交通機関)|バス]]路線網が張り巡らせられていた。 == 言論・報道 == === 国内向け報道管制 === 上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、[[テレビ]]や[[ラジオ]]、[[新聞]]などの[[マスコミ]]による報道は共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は、1980年代に[[グラスノスチ]]が始まるまで流れることはなかった。 このような規制は外国の事件や、[[チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノブイリ事故]]や[[大韓航空機撃墜事件]]のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものはほとんど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。 またロシア革命以前の支配者の[[ニコライ2世]]はともかくその家族を裁判なしに銃殺した真実はソ連政府にとってはタブーとされ、1979年に地質調査隊が皇帝一家の遺骨の発掘を行い、[[KGB]]に逮捕された事例がある。しかしソ連崩壊後にロシアでは70年以上も隠蔽されたこの事実が明らかになり、ロシア革命から80年後の1998年に葬儀が行われた。 === 外国向け報道管制 === なお、西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的[[イベント]]や、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、このようなお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。 また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。 === 「クレムリノロジー」 === [[ファイル:Redsquarenight.jpg|thumb|right|220px|[[赤の広場]]]] 国内における報道管制の一環として、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、[[クラシック音楽]]もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、[[クレムリン]]などの要所に掲揚されている国旗が[[半旗]]になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。 また、党の要人が[[失脚]]した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、[[メーデー]]などをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの[[赤の広場]]の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「[[:en:Kremlinology|クレムリノロジー]]」と呼んでいた。 === プロパガンダ === [[ファイル:Poster01.jpg|thumb|right|220px|スターリンを称えたプロパガンダポスター]] ソビエト連邦の[[プロパガンダ]]は現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる([[:en:Peter Kenez]]のThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン|エイゼンシュテイン]]が[[モンタージュ]]を編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や、後に[[ナチス党]]政権下の[[ドイツ]]の宣伝相となる[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]を絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:[[ANT-20 (航空機)|マクシム・ゴーリキー号]])。看板やポスターでは[[ロシア・アヴァンギャルド]]から発展した力強い構図・強烈なインパクトの[[フォトモンタージュ]]が生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。 特に[[バベルの塔]]にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指した[[ソビエト宮殿|ソビエト・パレス]]は後世の建築家だけでなく、形態的には[[イタリア]]や[[ドイツ]]、[[日本]]などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て[[丹下健三]]が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であった[[オスタンキノ・タワー]]も完成させた。スターリンはモスクワを[[ニューヨーク]]のような[[摩天楼]]にするため、[[スターリン様式]]の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダは[[イワン・パヴロフ]]や[[レフ・ヴィゴツキー]]などの[[心理学]]者の理論に基づいていた点で先駆的だったと評するものもいる。他にも[[ブラウン管]]を使った[[テレビ]]を世界で初めて発案した専門家もおり、テレビの研究も活発だった。 == 宗教 == === 弾圧 === [[ファイル:Christ saviour explosion.jpg|thumb|220px|爆破される[[救世主ハリストス大聖堂]]]] [[ロシア革命]]によって[[無神論]]を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシアの[[国家宗教|国教]]であった[[ロシア正教会]]は多数の聖堂や[[修道院]]が閉鎖され、財産が没収された。後に[[ロシアの世界遺産|世界遺産]]となる[[ソロヴェツキー諸島]]の修道院群は強制収容所に転用された。 また、聖職者や信者が外国の[[スパイ]]などの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され[[殉教|致命]]した。初代の京都主教を務めたことのある[[アンドロニク・ニコリスキイ]][[大主教]]は生き埋めの上で[[銃殺]]されるという特異な致命で知られる。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していた[[モスクワ総主教]]ティーホン(チーホン)であったが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。 [[1931年]]にはスターリンの命令によって[[救世主ハリストス大聖堂]]が爆破された。 しかし1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った[[正教会]]への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に[[総主教]]ティーホンが永眠して以降、空位となっていた[[モスクワ総主教]]の選出を認めた([[1943年]])。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、[[1918年]]から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。 だがスターリンの死後、フルシチョフは再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することは無かった。 === その他の宗教 === 広大な国土の中でも、中央アジア地域では[[イスラム教]]が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともにロシア正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。なお信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラン、トルコ、エジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。またイスラムが多数派の地域以外のロシア連邦等の諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人、アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインドや中国とも共通していた。ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人等と文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでチュルク系やイラン系、コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。また全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。 またソ連国内における布教活動自体は許されることはなかったものの、日本の[[創価学会]]とは外交的見地から友好関係を保っていた{{要出典}}。 == 文化 == === 芸術 === 言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には[[亡命]]を余儀なくされるものや、[[ノーベル文学賞]]受賞の[[ボリス・パステルナーク]]のように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の [[ソルジェニーツィン]]のように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。 革命直後のソ連では[[ウラジミール・レーニン]]が革命的な[[前衛美術|前衛芸術]]を奨励したため、[[抽象絵画|抽象芸術]]や[[ロシア構成主義|構成主義]]が生まれ、[[ロシア・アヴァンギャルド]]は共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の[[電子音楽]]機器[[テルミン]]が作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画には[[ル・コルビュジエ]]、[[ヴァルター・グロピウス]]、[[エーリヒ・メンデルスゾーン]]、[[オーギュスト・ペレ]]、[[ハンス・ペルツィヒ]]といった新進気鋭の[[モダニズム建築]]家たちが関わった。レーニン自身も[[ダダイスト]]だったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。また、[[フセヴォロド・メイエルホリド]]がアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、[[サーカス]]などの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「'''[[ビオメハニカ]]'''」[[:en:Biomechanics|Biomechanics]]の提唱などを次々と行い[[1920年代]]におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期には[[スタニスラフスキー・システム]]があった)。 スターリン政権下の[[1932年]]に行われたソ連共産党中央委員会にて「[[社会主義リアリズム]]」の方針が提唱されて以降は、[[1930年代]]前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。 一方で[[バレエ]]などのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、[[クラシック音楽]]でも、当局による制限を受けながら[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]らが作品を残し、[[エフゲニー・ムラヴィンスキー|ムラヴィンスキー]]率いる[[サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団|レニングラード・フィルハーモニー交響楽団]]などが名演奏を残している。 === ソ連を描いたもしくは題材にした映画 === [[ファイル:Bronenosets.jpg|thumb|right|220px|戦艦ポチョムキンのポスター]] *[[戦艦ポチョムキン]]([[1925年]]、ソ連) *[[僕の村は戦場だった]]([[1962年]]、ソ連) *[[モスクワは涙を信じない]]([[1979年]]、ソ連) *[[ロッキー4]](1985年、アメリカ) *[[レッド・オクトーバーを追え!]]([[1988年]]、アメリカ) *[[レッドブル (映画)|レッドブル]](1988年、アメリカ) *[[スターリングラード (2001年の映画)|スターリングラード]]([[2001年]]、アメリカ) *[[ククーシュカ ラップランドの妖精]]([[2002年]]、ロシア) *[[K-19 (映画)|K-19]](2002年、アメリカ) *[[007]]シリーズ === ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ === *[[ウサビッチ]](日本) === ソ連を描いたもしくは題材にしたゲーム === *[[メタルギアソリッド3]](日本) *[[コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー]] === ソ連の社会主義体制が描かれている作品 === *[[007シリーズ]]や[[ゴルゴ13]]等、40年代から90年代までの世界情勢を背景とするフィクション作品において、ソビエト連邦は頻繁に描かれている。特に諜報機関[[ソ連国家保安委員会|KGB]]の暗躍や、政府高官や科学者の[[亡命]]事件等がよく題材となる。作成された国が西側諸国であるためと、ソビエト連邦の内部が不明であったために、ソビエト連邦の関係者は悪役として描かれることも多い。 **[[ルパン三世]]では『[[ルパン三世 ロシアより愛をこめて]]』や『[[ルパン三世 ルパン暗殺指令]]』などにソ連の関連人物が出演している。 *[[ウォッカ・タイム]]([[片山まさゆき]]) === 外来文化 === 西側諸国で人気のあった[[ロックンロール]]や[[ヘヴィメタル]]、[[ジャズ]]などの音楽や、[[ハリウッド映画]]などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに[[北ヨーロッパ]]諸国や[[西ドイツ]]などのポピュラー音楽や、衛星国や日本、[[イタリア]]などの芸術的要素の高い[[映画]]のみが上映を許されていた。また、外国の[[ラジオ]]放送を傍受することも禁止されていた。 == スポーツ == {{Main|ソビエト連邦のスポーツ}} === ステート・アマチュア === [[スポーツ]]では国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆる[[ステート・アマチュア]]と呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、[[近代オリンピック|オリンピック]]で数多くの栄冠を手にしている。特に[[アイスホッケー]]や[[バレーボール]]、[[バスケットボール]]、[[ホッケー]]などの強豪国として知られオリンピックの[[メダル]]獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法[[ドーピング]]などによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。また、非識字率が70%であった革命直後から数十年で非識字率を13%に改善させ、戦後にほぼ100%を達成させたことから教育レベルが高く、チェス、[[数学オリンピック]]、国際コンテストでも強豪国として知られた。 なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のような[[プロフェッショナル|プロ]]スポーツ及びプロ選手は存在しなかった。 === モスクワオリンピック === [[ファイル:USSR badge 1980 Summer Olympics Emblem.png|thumb|right|220px|モスクワオリンピックのエンブレム]] [[1980年]]に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックである[[モスクワオリンピック]]が行われた。 冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や[[西ドイツ]]、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏季、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった。 そして、次回[[1984年]]開催された[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]では、1983年のアメリカ軍による[[グレナダ侵攻]]への抗議という名目で、ソビエト連邦と[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]のメダル王国をはじめ、東側諸国の多くがボイコットした。 == 関連項目 == {{commons|Союз Советских Социалистических Республик}} * [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] * [[クレムリン]] * [[一党独裁制]] * [[日本共産党]] * [[中国共産党]] * [[全体主義]] * [[大粛清]] * [[共産貴族]] * [[計画経済]] ** [[アレクセイ・スタハノフ]] * [[コルホーズ]] * [[ソフホーズ]] * [[ピオネール]] * [[極東共和国]] * [[チェカ]] * [[ソ連国家保安委員会]](KGB) * [[ロシアン・マフィア]] * [[コミンテルン]](第三インターナショナル) * [[コミンフォルム]](コミンテルンの後継組織) ** [[ゾルゲ事件]] * [[モスクワオリンピック]] ** [[めざせモスクワ]] * [[ロシアの声|モスクワ放送]] * [[アネクドート]] * [[エレバン放送]] * [[ロシア・アヴァンギャルド]] ** [[ニュー・ロシア・アヴァンギャルド]] * [[社会主義リアリズム]] ** [[スターリン様式]] * [[宇宙開発]] ** 宇宙ステーション[[ミール]] ** [[スプートニク計画]] ** [[ボストーク]] ** [[ソユーズ]] ** [[ソ連の有人月旅行計画]] * [[グラスノスチ]] * [[ソビエト連邦科学アカデミー]] * [[つるふさの法則]] * [[ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www.asahi-net.or.jp/~ri8a-iskw/index.htm 写真で見るロシアと旧ソ連の国々] * [http://hw001.gate01.com/misha-moscow-80/olympic/ モスクワオリンピック] {{共産主義}} {{ロシア革命後の国家}} [[Category:ロシアの歴史|*1917]] [[Category:ソビエト社会主義共和国連邦|*]]