格知学舎

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格知学舎(かくちがくしゃ)は1869年(明治2年)山形県東村山郡貫津村(現天童市)に設けられた本沢竹雲創始の私塾(漢学塾)である。「翠濤書院」あるいは「月光書院」とも称し、奥羽山系五老山の麓に立地したため「五老学校」と呼ばれることもあった。貫地村の名主結城六右衛門に招かれて開かれた。竹雲の教育は漢学儒学仏教を主とし、日本の伝統を尊重したきわめて保守的なもので、当時の明治政府が主導する西洋化政策に抵抗した。格知学舎の教育は竹雲以後も1946年昭和21年)まで続き、終戦時まで村山地方の地主子弟が総勢で180名、学舎に寄宿して教育を受けた。竹雲以下3代の塾頭はいずれも礼儀を重んじ信仰心厚く、反欧化思想を体現するちょんまげに和服姿であったという。校内に聖堂をつくり、弟子にもちょんまげと和装を強いたことから「チョンマゲ学校」と言われた。

建物跡は、1952年(昭和27年)山形県指定史跡になっており、書庫には、竹雲の遺品や5000点余りの和漢典籍が保管されている。

なお、「はなの山形もみじの天童」と花笠音頭で唄われているもみじは、実は格知学舎のもみじだという説がある。

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