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ローマ出身。ローマ聖チェチーリア音楽院で[[アルフレード・カゼッラ]]にピアノ、[[フェルナンド・ジェルマーニ]]にオルガン、[[ベルナルディーノ・モリナーリ]]に指揮法、アレッサンドロ・ブスティーニと[[オットリーノ・レスピーギ]]に作曲を学び、[[パウル・ヒンデミット]]の薫陶も受けた。音楽院在学中の1934年にオーストリア人のピアニストであるテレジータ・リマー<ref>{{Wayback|date=20220330140825|url=https://www.norpete.com/c1777.html}}</ref>と結婚している。また、ローマ大学で音楽史の論文を書いて博士号を取得している。1938年には師のカゼッラの推挙でパルマ音楽院の教職に就いたが、翌年にはフィレンツェのケルビーニ音楽院に転出し、1971年に引退するまで教鞭を執った。ケルビーニ音楽院の任期中の1948年から1950年までの間と1968年から1971年までの間にはシエナのキジアーナ音楽院の教授職も兼ねた。1950年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会で講師として参加。ピアノ奏者としては、1937年にローマでモリナーリの指揮するローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団の演奏会でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第9番とセルゲイ・ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の独奏を担当してデビュー。ラフマニノフの作品については、このスカルピーニの演奏がイタリアでの初演奏であった。1938年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出演して名声を確立。同年、ヒンデミットのピアノ連弾ソナタの初演で第一ピアノ・パートを弾いている。1943年には親友の[[ルイジ・ダッラピッコラ]]から献呈されたソナチネ・カノニカを初演。1946年にはヴェネツィア国際音楽祭で[[セルゲイ・プロコフィエフ]]のピアノ・ソナタ第7番のイタリアでの初演奏を敢行。1949年にはトリノに於いて[[フランツ・アンドレ]]の指揮下で[[アルノルト・シェーンベルク]]のピアノ協奏曲をイタリア初演奏を行った。1952年にはシェーンベルクの全ピアノ作品をイタリア国内で初めて取り上げた。1954年にはニューヨークで[[ディミトリ・ミトロプーロス]]の指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団と共演してプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を演奏し、アメリカ・デビューを果たした。1956年に糖尿病の診断を受けて以降は、健康が衰え始めたが、1957年にロジャー・セッションズのピアノ協奏曲を手掛けたり、イタリア全土の大学でヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を演奏して回ったり、1964年からチェンバロの演奏も行うようになったりと、精力的な活動をつづけた。1960年代末からステージ活動を控えるようになったが、自宅でのピアノ演奏と録音を続けた。1982年に心臓発作を起こし、1988年にペースメーカーを装着して以降、活動を制限。
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ローマ出身。ローマ聖チェチーリア音楽院で[[アルフレード・カゼッラ]]にピアノ、[[フェルナンド・ジェルマーニ]]にオルガン、[[ベルナルディーノ・モリナーリ]]に指揮法、アレッサンドロ・ブスティーニ<ref>{{Wayback|date=20220330135201|url=https://www.google.com/search?q=%22PIETRO+SCARPINI%22+Alessandro+Bustini&tbm=bks}}</ref>と[[オットリーノ・レスピーギ]]に作曲を学び、[[パウル・ヒンデミット]]の薫陶も受けた。音楽院在学中の1934年にオーストリア人のピアニストであるテレジータ・リマー<ref>{{Wayback|date=20220330140825|url=https://www.norpete.com/c1777.html}}</ref>と結婚している。また、ローマ大学で音楽史の論文を書いて博士号を取得している。1938年には師のカゼッラの推挙でパルマ音楽院の教職に就いたが、翌年にはフィレンツェのケルビーニ音楽院に転出し、1971年に引退するまで教鞭を執った。ケルビーニ音楽院の任期中の1948年から1950年までの間と1968年から1971年までの間にはシエナのキジアーナ音楽院の教授職も兼ねた。1950年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会で講師として参加。ピアノ奏者としては、1937年にローマでモリナーリの指揮するローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団の演奏会でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第9番とセルゲイ・ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の独奏を担当してデビュー。ラフマニノフの作品については、このスカルピーニの演奏がイタリアでの初演奏であった。1938年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出演して名声を確立。同年、ヒンデミットのピアノ連弾ソナタの初演で第一ピアノ・パートを弾いている。1943年には親友の[[ルイジ・ダッラピッコラ]]から献呈されたソナチネ・カノニカを初演。1946年にはヴェネツィア国際音楽祭で[[セルゲイ・プロコフィエフ]]のピアノ・ソナタ第7番のイタリアでの初演奏を敢行。1949年にはトリノに於いて[[フランツ・アンドレ]]の指揮下で[[アルノルト・シェーンベルク]]のピアノ協奏曲をイタリア初演奏を行った。1952年にはシェーンベルクの全ピアノ作品をイタリア国内で初めて取り上げた。1954年にはニューヨークで[[ディミトリ・ミトロプーロス]]の指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団と共演してプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を演奏し、アメリカ・デビューを果たした。1956年に糖尿病の診断を受けて以降は、健康が衰え始めたが、1957年にロジャー・セッションズのピアノ協奏曲を手掛けたり、イタリア全土の大学でヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を演奏して回ったり、1964年からチェンバロの演奏も行うようになったりと、精力的な活動をつづけた。1960年代末からステージ活動を控えるようになったが、自宅でのピアノ演奏と録音を続けた。1982年に心臓発作を起こし、1988年にペースメーカーを装着して以降、活動を制限。
  
 
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2022年3月31日 (木) 02:10時点における最新版

ピエトロ・スカルピーニ(Pietro Scarpini, 1911年4月6日[1] - 1997年11月27日)は、イタリアピアノ奏者。[2][3]

ローマ出身。ローマ聖チェチーリア音楽院でアルフレード・カゼッラにピアノ、フェルナンド・ジェルマーニにオルガン、ベルナルディーノ・モリナーリに指揮法、アレッサンドロ・ブスティーニ[4]オットリーノ・レスピーギに作曲を学び、パウル・ヒンデミットの薫陶も受けた。音楽院在学中の1934年にオーストリア人のピアニストであるテレジータ・リマー[5]と結婚している。また、ローマ大学で音楽史の論文を書いて博士号を取得している。1938年には師のカゼッラの推挙でパルマ音楽院の教職に就いたが、翌年にはフィレンツェのケルビーニ音楽院に転出し、1971年に引退するまで教鞭を執った。ケルビーニ音楽院の任期中の1948年から1950年までの間と1968年から1971年までの間にはシエナのキジアーナ音楽院の教授職も兼ねた。1950年にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会で講師として参加。ピアノ奏者としては、1937年にローマでモリナーリの指揮するローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団の演奏会でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第9番とセルゲイ・ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲の独奏を担当してデビュー。ラフマニノフの作品については、このスカルピーニの演奏がイタリアでの初演奏であった。1938年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出演して名声を確立。同年、ヒンデミットのピアノ連弾ソナタの初演で第一ピアノ・パートを弾いている。1943年には親友のルイジ・ダッラピッコラから献呈されたソナチネ・カノニカを初演。1946年にはヴェネツィア国際音楽祭でセルゲイ・プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番のイタリアでの初演奏を敢行。1949年にはトリノに於いてフランツ・アンドレの指揮下でアルノルト・シェーンベルクのピアノ協奏曲をイタリア初演奏を行った。1952年にはシェーンベルクの全ピアノ作品をイタリア国内で初めて取り上げた。1954年にはニューヨークでディミトリ・ミトロプーロスの指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団と共演してプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を演奏し、アメリカ・デビューを果たした。1956年に糖尿病の診断を受けて以降は、健康が衰え始めたが、1957年にロジャー・セッションズのピアノ協奏曲を手掛けたり、イタリア全土の大学でヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を演奏して回ったり、1964年からチェンバロの演奏も行うようになったりと、精力的な活動をつづけた。1960年代末からステージ活動を控えるようになったが、自宅でのピアノ演奏と録音を続けた。1982年に心臓発作を起こし、1988年にペースメーカーを装着して以降、活動を制限。

フィレンツェにて死去。[6]

脚注[編集]

  1. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  2. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  3. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  4. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  5. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  6. (Unknown) Pietro Scarpini: Geburtstag & Tod (1911-1997), Alter und Sternzeichen Unknown arch. 2022-03-31 2022-03-31