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'''三塚 博'''('''みつづか ひろし'''、[[1927年]][[8月1日]] - [[2004年]][[4月25日]])は、日本の[[政治家]]。[[衆議院議員]](10期)、[[財務大臣|大蔵大臣]](93代)、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](115代)などを歴任。[[正三位]][[旭日大綬章]]。
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==来歴==
 
==来歴==
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当選1回の頃に[[青嵐会]]の結成に参加。[[中川一郎]]の信用を得て、[[清和会|福田派]]議員でありながら[[1979年]]に設立された[[自由革新同友会|中川派]]の幹事長を務める。しかし中川が[[自由民主党総裁選挙]]に出ると、金は受け取るが票は安倍に入れる狡猾さも持っていた。この事に関して[[浜田幸一]]は、著書『[[日本をダメにした九人の政治家]]』にて「金で総てを動かし、中川さんが苦しんでいるさまを横目で出世していった三塚君の人間性を許すわけにはいかない」と断じた。そして、「この男が総理にでもなろうものなら、間違いなく日本は滅びてしまう」と警鐘を鳴らした。
 
当選1回の頃に[[青嵐会]]の結成に参加。[[中川一郎]]の信用を得て、[[清和会|福田派]]議員でありながら[[1979年]]に設立された[[自由革新同友会|中川派]]の幹事長を務める。しかし中川が[[自由民主党総裁選挙]]に出ると、金は受け取るが票は安倍に入れる狡猾さも持っていた。この事に関して[[浜田幸一]]は、著書『[[日本をダメにした九人の政治家]]』にて「金で総てを動かし、中川さんが苦しんでいるさまを横目で出世していった三塚君の人間性を許すわけにはいかない」と断じた。そして、「この男が総理にでもなろうものなら、間違いなく日本は滅びてしまう」と警鐘を鳴らした。
  
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[[Image:サミットに向かう宇野宗佑.jpg|300px|thumb|[[1989年]][[7月12日]] サミットへ出発する[[宇野宗佑]]首相夫妻。左は[[三塚博]]]]
 
政策通であり、[[加藤六月]]などと共に「運輸族」の有力議員として知られ、[[1985年]]に[[運輸大臣]]として初入閣。[[国鉄分割民営化]]、財政構造改革路線の推進に尽力した。[[1986年]]、安倍晋太郎が福田派を継承すると、三塚は派内事務総長に就任した。加藤、[[塩川正十郎]]、[[森喜朗]]と共に[[安倍派四天王]]のひとりに数えられるほどの実力者へと成長する中、[[リクルート事件]]で派内のライバルだった加藤、森が謹慎を余儀なくされ、事件に無関与だった三塚は[[通商産業大臣]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[自民党政調会長]]をたて続けに歴任、異例のスピードで重要役職をこなす。
 
政策通であり、[[加藤六月]]などと共に「運輸族」の有力議員として知られ、[[1985年]]に[[運輸大臣]]として初入閣。[[国鉄分割民営化]]、財政構造改革路線の推進に尽力した。[[1986年]]、安倍晋太郎が福田派を継承すると、三塚は派内事務総長に就任した。加藤、[[塩川正十郎]]、[[森喜朗]]と共に[[安倍派四天王]]のひとりに数えられるほどの実力者へと成長する中、[[リクルート事件]]で派内のライバルだった加藤、森が謹慎を余儀なくされ、事件に無関与だった三塚は[[通商産業大臣]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[自民党政調会長]]をたて続けに歴任、異例のスピードで重要役職をこなす。
  

2010年1月2日 (土) 07:20時点における最新版

三塚博

三塚 博みつづか ひろし1927年8月1日 - 2004年4月25日)は、日本の政治家衆議院議員(10期)、大蔵大臣(93代)、外務大臣(115代)などを歴任。正三位旭日大綬章


来歴[編集]

宮城県遠田郡北浦村(現美里町)で、男6人、女8人の14人兄弟の7番目として誕生。宮城県立小牛田農林学校(現宮城県小牛田農林高等学校)、東京獣医畜産専門学校(現日本大学生物資源科学部)を経て早稲田大学第一法学部学士入学し、1951年に卒業。在学中は雄弁会に所属。

大学卒業後は本間俊一保科善四郎両衆院議員秘書を経て、1963年に宮城県議会議員に初当選。2期務める。1970年には自由民主党宮城県連の一方的な要請により仙台市長選挙に立候補し落選するが、1972年第33回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、初当選。以降、連続当選10回。

福田派に属し、派内の一期先輩には村田敬次郎森喜朗が、同期生には小泉純一郎がいた。なお、森は議員としては一期先輩であったが、早稲田の雄弁会では三塚のほうが先輩である。

当選1回の頃に青嵐会の結成に参加。中川一郎の信用を得て、福田派議員でありながら1979年に設立された中川派の幹事長を務める。しかし中川が自由民主党総裁選挙に出ると、金は受け取るが票は安倍に入れる狡猾さも持っていた。この事に関して浜田幸一は、著書『日本をダメにした九人の政治家』にて「金で総てを動かし、中川さんが苦しんでいるさまを横目で出世していった三塚君の人間性を許すわけにはいかない」と断じた。そして、「この男が総理にでもなろうものなら、間違いなく日本は滅びてしまう」と警鐘を鳴らした。


1989年7月12日 サミットへ出発する宇野宗佑首相夫妻。左は三塚博

政策通であり、加藤六月などと共に「運輸族」の有力議員として知られ、1985年運輸大臣として初入閣。国鉄分割民営化、財政構造改革路線の推進に尽力した。1986年、安倍晋太郎が福田派を継承すると、三塚は派内事務総長に就任した。加藤、塩川正十郎森喜朗と共に安倍派四天王のひとりに数えられるほどの実力者へと成長する中、リクルート事件で派内のライバルだった加藤、森が謹慎を余儀なくされ、事件に無関与だった三塚は通商産業大臣外務大臣自民党政調会長をたて続けに歴任、異例のスピードで重要役職をこなす。

1991年安倍晋太郎が死去すると、加藤との三六戦争に勝利し、安倍派を継承、三塚派を率いて自由民主党総裁選挙に出馬した。その後も、党幹事長第2次橋本内閣大蔵大臣を務めるなど、総理総裁候補として申し分のないキャリアを積んだが、蔵相時に山一証券・拓銀の破たんといった未曾有の金融危機に見舞われながらも目立った指導力を発揮出来ず、以後存在感は低下した。遂に総理大臣への夢は叶わず、翌年には森に派閥を譲って政界の第一線から退く形になった。2003年、政界を引退し、翌年の2004年4月25日、肺炎のため逝去。(一説には肺癌を発病していたという)享年??。

経歴[編集]

人物[編集]

  • 株仕手戦を巡る国際航業事件、師の子息である本間俊太郎宮城県知事が逮捕されたゼネコン汚職への関与を指摘されるなど、疑惑の対象となることが多く、「疑惑のデパート」と揶揄された。
  • 浜田幸一の大ベストセラー「日本をダメにした九人の政治家」で、日本をダメにした政治家として名前が挙げられ、「三塚博よ、真っ先に辞職を」と迫られた。
  • 宗教法人幸福の科学は三塚を哲人政治家として高く評価し、1995年には自らの政権の総理大臣として三塚を推薦する事を表明した上、同団体系の出版社から『三塚博総理大臣待望論』を刊行した。しかし、この動きは短期間で収束した。
  • 有害図書の規制を強硬に主張し「少年の健全な育成を阻害する図書類の販売等の規制に関する法案」(未提出)作成の中心人物となったことで知られる。特に当時、角川書店から刊行されていた『ポップティーン』を始めとする少女向け情報誌を予算委員会で「性欲雑誌」と激しく攻撃。この煽りを受けて複数の雑誌が休廃刊ないし大幅な路線変更を余儀無くされた。
  • 中選挙区時代、旧宮城1区で愛知揆一和男との間で、選挙戦の際に得票数をめぐって激しい争いが行われた。「三愛戦争」と呼ばれたこの争いは、小選挙区制導入で愛知和男が宮城1区、三塚が宮城3区と住み分けが成立したことで解消された。
  • 東京獣医畜産専門学校獣医師免許を取得している。
  • 耳毛がある程度の距離からも目視できるほど長く、「異様に耳毛の長い人物」として「おふくろさん騒動」で世間を騒がせた川内康範と共に真っ先に名前が挙がる。

関連項目[編集]

著作[編集]

  • 『国鉄を再建する方法はこれしかない』(ユニコーン書林 1984年)ISBN 4880941085
  • 『さらば国有鉄道』(ネスコ 1986年)ISBN 4890360360

関連書籍[編集]

  • 『三塚博 全人像』(関口茂著 行政問題研究所 1992年)ISBN 4905786924
  • 『三塚博 黒い履歴書―ゼネコン疑惑の主役 汚れた領袖の悪行を暴く』(菊池久著 ポケットブック社 1993年)ISBN 4341140558


官職
先代:
日本の旗 日本 大蔵大臣
第102代:1996年 - 1998年
次代:
橋本龍太郎(兼任)
先代:
日本の旗 日本 外務大臣
第115代:1989年
次代:
先代:
日本の旗 日本 通商産業大臣
第50代:1988年 - 1989年
次代:
先代:
日本の旗 日本 運輸大臣
第57代:1985年 - 1986年
次代:
議会
先代:
日本の旗 日本 衆議院議院運営委員長
第44代:1987年 - 1988年
次代:
党職
先代:
自由民主党幹事長
第31代 : 1995年
次代:
先代:
自由民主党政務調査会長
第35代 : 1989年 - 1990年
第38代 : 1992年 - 1993年
次代:
先代:
清和会会長
第3代 : 1991年 - 1994年
次代:
改称
先代:
改称
21世紀を考える会・新政策研究会会長
初代 : 1994年 - 1998年
次代: